大陸の混乱状態によって周辺の諸民族に対するチャイナの影響力が弱まると、それを待っていたかのように東アジアの諸地域は次々と国家形成へと進んでいきました。
朝鮮半島では、現在の中国東北部からおこった高句麗(こうくり)が南下して、313年にチャイナの植民地であった楽浪郡(らくろうぐん)を滅ぼしました。
一方、南部では馬韓(ばかん)・辰韓(しんかん)・弁韓(べんかん)の3つの地方に分かれ、それぞれ小国の連合が形成されていましたが、4世紀の半ば頃には馬韓から百済(くだら)が、辰韓から新羅(しらぎ)がそれぞれおこりました。
かくして、朝鮮半島の北部には高句麗、南西部には百済、そして南東部に新羅の三国が成立したのです。なお、弁韓と呼ばれた朝鮮半島南部の地域は国家統一がなされず、小国分立の状態が続きました。
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なお、任那は「加羅(から)」もしくは「伽耶(かや)」とも呼ばれています。また、当時の朝鮮半島南部には大和朝廷の出先機関として「任那日本府(みまなにほんふ)」が置かれていたという記述が「日本書紀」などにあります。
一方、北方の高句麗も半島南部の鉄資源や先進技術を求めて南下策を進めていたことから、高句麗と大和朝廷とが交戦状態となりました。
現代のチャイナと北朝鮮との国境付近には、高さ約6mの大きな碑(ひ)が残されており、高句麗の「好太王碑(こうたいおうひ、別名を広開土王碑=こうかいどおうひ)」と呼ばれています。好太王碑は414年に好太王の子が亡き父の功績を称えて建立(こんりゅう)したものです。
碑文(ひぶん)によれば、高句麗の圧迫を受けた百済が大和朝廷に助けを求めたことをきっかけに日本の軍勢が海を渡り、百済・新羅を「臣民」扱いとした(=百済・新羅を日本に従わせた)ため、高句麗の好太王が朝廷の軍勢を倒すために兵を送りました。大和朝廷は高句麗と戦いましたが敗れ、404年に朝鮮半島から兵を引き上げています。
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14代の仲哀(ちゅうあい)天皇が崩御された後、后(きさき)であった神功(じんぐう)皇后が身ごもっているにもかかわらず朝鮮半島へ出兵し、新羅を初めとして百済や高句麗をも降伏させたという伝説が残っているのです。
おそらく神功皇后の頃には我が国は朝鮮半島への足がかりをつかんでいたのでしょう。なお、神功皇后が帰国後に出産されたのが後の15代の応神天皇であり、応神天皇の子が先述した16代の仁徳天皇です。
大和朝廷が朝鮮半島に足がかりを得るだけの大きな勢力を持っていたからこそ、世界最大級の前方後円墳をつくることができたのでしょう。ちなみに、仁徳天皇の子である17代の履中(りちゅう)天皇の陵(みささぎ)は「上石津(かみいしづ)ミサンザイ古墳」とも呼ばれていますが、全長が約365mもあり、全国第3位の規模を誇る巨大古墳です。
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「宋書」倭国伝(そうじょわこくでん)などによれば、倭王の讃(さん)・珍(ちん)・済(せい)・興(こう)・武(ぶ)が相次いで南朝の宋や斉に使者を遣わし、朝鮮半島南部への軍事指揮権を認めてもらおうとしています。
要するに、我が国はチャイナの皇帝の権威を活用することで、朝鮮半島における政治的立場を有利にしようという思惑(おもわく)があったと考えられるのです。
なお、倭の五王が我が国のどの天皇にあてはまるのかということに関しては様々な説がありますが、少なくとも済は19代の允恭(いんぎょう)天皇、興は20代の安康(あんこう)天皇、武は21代の雄略(ゆうりゃく)天皇だとされています。
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なぜなら埼玉県の稲荷山(いなりやま)古墳と熊本県の江田船山(えたふなやま)古墳から出土した鉄剣(てっけん)に、それぞれ「獲加多支鹵大王(わかたけるおおきみ)」と読める銘文(めいぶん)が発見されたからです。なお、雄略天皇の別名は「大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)」であり、「幼武(わかたける)」の部分が一致するので間違いないとされています。
ところで、倭の五王がチャイナの南朝に使者を送った際の形式は、大王(おおきみ)と呼ばれた我が国の天皇が皇帝の権威に屈してその傘下(さんか)に入るという、いわゆる「臣下(しんか)の朝貢国(ちょうこうこく)」になるというものでした。
これは、前回(第93回)の講座で紹介した「冊封(さくほう)体制」そのものであり、大和朝廷にとっては屈辱(くつじょく)以外の何物でもありませんでした。この関係を解消するには、さらなる時間の経過が必要だったのです。
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