秀吉の死後、徳川家康と秀吉の家臣であった石田三成(いしだみつなり)とが対立し、両者は1600年に関ヶ原で激突しました。このとき毛利輝元は三成率いる西軍の総大将に祭り上げられ、大坂城に入城しましたが、関ヶ原の戦いで彼が動くことはありませんでした。
実は、毛利家の一族であった吉川広家(きっかわひろいえ)が、家康率いる東軍に通じていたのです。広家は輝元が大坂城から出陣させないように工作するとともに、自軍は関ヶ原で一切動かずに不戦を貫きました。
広家による努力の甲斐あって(?)西軍が敗退して東軍が勝利すると、広家は家康から「毛利家の本領安堵(ほんりょうあんど、領地をそのまま保障すること)」の約束を取り付けました。
広家の工作を戦後に知った輝元は、怒るどころか本領安堵の約束をむしろ喜び、家臣の「大坂城に留まって戦うべきだ」との声を無視して、大坂城を「無傷で」明け渡したのですが、これがとんでもない大失敗でした。
家康は輝元が大坂城を明け渡した途端に、それまでの温和な態度を一変させ、手のひらを返したように「毛利家の領地没収」を宣言したのです。この時になって輝元ばかりでなく広家も含めて、自分たちが家康にだまされていたことに初めて気がついたのですが、後の祭りでした。




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広家による必死の懇願(こんがん)で毛利家は辛うじて断絶を免れましたが、120万石あった領地は周防国(すおうのくに、現在の山口県東部)と長門国(ながとのくに、現在の山口県西部)の2ヶ国のみの約37万石に激減してしまいました。広大な領地の約3分の2が一気に削られてしまったのです。
毛利家が領地を削られずに済む方法はなかったのでしょうか?
その可能性は確かにありました。家臣が勧めたように、大坂城で家康相手に戦えばよかったのです。大坂城は天下の名城ですから、そう簡単に落とされるものではないですし、仮に負けたとしても、家康の心の中に「毛利家を敵に回したくない」という感情が芽生えたはずでした。
実は島津家(しまづけ)が同じことをしているのです。西軍側についた島津家は、関ヶ原の戦いが終わると、東軍の激しい攻撃を受けて100名に満たない人数になりながらも、領地の薩摩国(さつまのくに、現在の鹿児島県西部)へ無事に引き上げました。その後も徹底抗戦を覚悟して粘った島津家に対し、家康は取り潰(つぶ)しをあきらめ、島津家の本領安堵を認めたのでした。
島津家と同じように抵抗すべきだったのに、家康の謀略に簡単に引っかかって、あっさりと大坂城を明け渡した輝元の大失態であり、謀略で鳴らした元就の孫とはとても思えないダメ武将ぶりでした。
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