3世紀後半頃の我が国では国家の統一が進み、大和(やまと、現在の奈良県)の豪族を中心とする強大な連合政権が誕生しました。これを大和朝廷(やまとちょうてい)と呼び、現代の皇室のルーツでもあります。
大和朝廷が誕生したとされる当時は、大和地方を中心に巨大な古墳(こふん)が現れており、また各地の古墳も大和地方と同じ前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)であることなどから、大和朝廷の支配が広い地域に及び、遅くとも4世紀後半までには国土統一が達成され、その勢力は関東から九州北部にまで及んだと考えられています。
ところで、現代の皇室のルーツでもある大和朝廷ですが、中学校の学習指導要領では「大和朝廷(大和政権)」と記載されているのに対して、高校の一般的な歴史教科書では「ヤマト政権」あるいは「ヤマト王権」などの表記がされています。
「大和朝廷」をなぜ「ヤマト政権(あるいはヤマト王権)」と表現するかといえば、一般的には以下の理由が知られています。
・「大和」という用字は8世紀以降(律令政治の成立)であるから
・当時の政治連合の形式が「朝廷」とはいえないから
一見その通りに思えそうですが、こうした見方は日本古来の政治制度を「外部から」、すなわち「外国から」眺(なが)めたものであるといえます。我が国の歴史を我が国が語る際に、なぜわざわざ外国からの視点で見極める必要があるのでしょうか。私は違和感を禁じ得ません。
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WGIPによる影響は我が国の歴史教科書にも確実に表れており、我が国初代の神武(じんむ)天皇などの神話の記載がほとんど見られません。その理由としては、例えば「神話は空想的なファンタジーであり、教科書に載せるべきではない」というのもあります。
また、神武天皇など古代の天皇陛下の崩御(ほうぎょ、天皇・皇后・皇太后・太皇太后がお亡くなりになること)された年齢が、我が国最古の歴史書である「古事記(こじき)」や「日本書紀(にほんしょき)」によれば100歳を超えておられる方々が多いのですが、当時の人々がそれだけ長命であったとは考えられないという見解も存在します。
しかし、少なくとも後者、すなわち古代の歴代天皇が長寿であったことに関しては、チャイナの歴史書を参考にすれば謎が解けることを皆さんはご存知でしょうか。
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「倭人(わじん)は歳(とし)の数え方を知らない。ただ春の耕作と秋の収穫をもって年紀としている」。
当時の倭人、すなわち日本人は春分と秋分をそれぞれ一つの年紀として、つまり通常の一年を倍の二年として計算していたというのです。これを「春秋年(しゅんじゅうねん)」と呼びます。
例えば、日本書紀によれば神武天皇は127歳で崩御されていますが、もしこれを春秋年として再計算すれば、半分の63~64歳で崩御されていることになり、辻褄(つじつま)が合います。
なお、以上の見解は長浜浩明(ながはまひろあき)氏の著書である「古代日本『謎』の時代を解き明かす」を参考にしており、長浜氏によれば、神武天皇のご即位の年は従来の紀元前660年ではなく、紀元前70年であるということです。
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その根拠の一つは「大阪」にあります。
大阪湾の遠浅(とおあさ)の海岸沿いから広大な大阪平野が生駒山地まで続いている現在の大阪ですが、今から約20000年前には河内湾(かわちわん)と呼ばれる海が生駒山の麓(ふもと)にまで広がっていました。これは、縄文時代の約6000年前がピークとされる海水面の上昇が原因とされ、生駒山西麓(せいろく)の大阪府東大阪市ではマッコウクジラの骨が発見されています。
その後、温暖化や土砂の堆積(たいせき)によって、上町(うえまち)台地の北側に位置する河内湾と大阪湾の連絡口が狭(せば)まり、今から約3000~2000年前には干潟(ひがた)が広がって河内潟(かわちがた)となりました。さらに約1800~1600年前には湾口(わんこう)が閉ざされて河内湖(かわちこ)となり、やがて平野化したのです。
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実は、その様子が、8世紀に編纂(へんさん)された「日本書紀」にも書かれているのです。
「因(よ)りて名(なづ)けて浪速国(なみはやくに)と為(い)ふ。亦(また)浪花(なにわ)と曰(い)ふ。今し難波と謂(い)へるは訛(よこなま)れるなり」。
現在の大阪が「浪速(なにわ)」あるいは「浪花(なにわ)」と呼ばれたり、ミナミの中心地が「難波(なんば)」と呼ばれたりするのは、地質学と記紀の両方にルーツがあることが良く分かりますね。なお、河内潟の頃に、先の尖(とが)った形をした上町台地は「難波(なにわ)の碕(みさき)」と呼ばれていました。
さらには、神武天皇が大和の国を目指して東征(とうせい)された際に(詳しくは後述します)、大阪湾から現在の大阪府東大阪市に船で移動したという話が日本書紀にみられますが、ここにも地質学的に証明できる記述が見られるのです。
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現代語訳すれば「難波の碕に着こうとするとき、速い潮流があって大変早く着いた」となりますが、この一文は、神武天皇の一行が河内潟の狭い開口部から流入する潮流に乗って一気に潟内部に進入し、難波の碕に着いたことを物語っています。
こうした記述は、河内潟の時代でしか考えられません。なぜなら、河内湾の頃であれば現在の大阪府東大阪市付近での長髄彦(ながすねひこ)らとの戦い(詳しくは後述します)が海戦となってしまいますし、また河内湖になってしまえば、遠浅の湖面では軍船での上陸は厳しいうえに「速い潮流があって大変早く着いた」とはなりません。
ということは、神武天皇の東征は今から約3000~2000年前の河内潟の頃に行われたことになりますね。一方、日本書紀によれば神武天皇が即位されたのは今から約2680年前ですし、先述した長浜氏の見解においても約2090年前であり、いずれも河内潟の頃です。
つまり、神武天皇の東征は地質学的にもその正しさが証明されたことになるのです。
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太陽を神格化した神であり、皇室の祖神たる天照大神(あまてらすおおみかみ)の直系の子孫であられる神武天皇(別名:神日本磐余彦尊=かんやまといわれひこのみこと)は、それまでの日向(ひゅうが、現在の宮崎県)の高千穂(たかちほ)から都を東方へ移そうと決意されました。
神武天皇がそのように思われたのは、日向よりも東の方で争いが絶えず、まとまりのない状態であったため、大八島(おおやしま、日本のこと)の中心たる大和に向かい、そこで新たに都を造ろうとお考えになったからだと伝えられています。
神武天皇は軍勢を率いられて日向から瀬戸内海を渡り、大阪湾から大和へ上陸されようとしました。先述の「難波(なにわ)の碕(みさき)へは速い潮流があって大変早く着いた」とはこのことです。しかし、現在の大阪府東大阪市付近で長髄彦(ながすねひこ)らの激しい抵抗にあって、兄を失われました。
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そんな神武天皇の軍勢の前に、いきなり巨大なカラスが現れました。それは三本足をもつ八咫烏(やたがらす)でした。八咫烏は天照大神の使いとして、天皇を大和まで先導して道案内の役割を果たしたのです。八咫烏は日本サッカー協会のシンボルマークとして用いられているので、サッカーファンにはなじみが深いかもしれませんね。
大和に入られた神武天皇の軍勢は、抵抗する豪族を次々と倒して目的地に近づかれましたが、再び長髄彦(ながすねひこ)らが天皇の前に立ちふさがりました。
折しも氷雨(ひさめ)が降るなか、天皇が苦戦されておられたそのときに、どこからともなく金色に輝く一羽のトビが飛んできて、天皇の弓の先に止まると、トビは稲光のようにピカッと光り輝き、敵軍の目をくらまして敗走に追い込みました。
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また、ご即位の日は十干十二支(じっかんじゅうにし)で辛酉(しんゆう、別名を「かのととり」)の年の1月1日と伝えられており、日本書紀では、先述のとおり神武天皇のご即位の年を紀元前660年に定めています。
現在、神武天皇が即位されてから約2680年が経ちましたが、これを皇紀(こうき)ともいい、例えば令和5(2023)年は皇紀2683年にあたります。また、現在の建国の日である2月11日は、神武天皇のご即位の日である1月1日が旧暦であるため、現在の暦に修正したものです。
神武天皇による建国のご意思は、長いあいだ我が国の理想として絶えることなく伝承され続け、明治時代には「紀元節」として祭日となり、大東亜戦争の終戦後も、昭和23(1948)年の前半頃までは官庁や学校で祝典が開催されていました。
しかし、GHQの命令によって新たに国会で祝日法を制定することになった際に、日本人が心を一つにして国の誕生日を祝うことが日本人の団結心をもたらすとともに、占領に悪影響が出ることが予想されたため、紀元節が一方的に廃止されてしまったのです。
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終戦から20年以上が経った昭和41(1966)年、当時の佐藤栄作(さとうえいさく)内閣によって「建国記念日を祝日として設ける」と規定した祝日法の改正案が可決されると、学識経験者などからなる審議会を設置し、半年にわたる論議の後に「建国記念の日を2月11日とする」という政令を発したことで、かつての紀元節が昭和42(1967)年からようやく国民の祝日として復活しました。
ちなみに、当時発表された世論調査によれば「2月11日を建国記念の日とする」案が全体の5割近くを占(し)めるなど、国民から圧倒的な支持を得ていたそうです。
なお「建国記念の日」が「建国記念日」ではないのは,史実に基づく建国の日とは関係なく,建国されたという事象そのものを記念する日であるという考えによるものであるとされ、祝日制定に断固として反対した当時の日本社会党(現在の社会民主党)を納得させるためだったそうです。
祝日制定からすでに半世紀以上が経過したのですから、GHQによる洗脳状態から真に脱出するためにも、改めて「建国記念日」として国民がこぞって祝うことができるように法律の改正を求めていくべきではないでしょうか。
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なお、古墳が盛んにつくられた3世紀後半から7世紀頃にかけて特に古墳時代と呼び、古墳の分布・様式・副葬品(ふくそうひん)などから前期(3世紀後半~4世紀中頃)・中期(4世紀末~5世紀)・後期(6世紀~7世紀)に分けられています。
3世紀後半の頃の古墳は前方後円墳という独特の形をしており、内部には木棺(もっかん)を竪穴式石室(たてあなしきせきしつ)や木棺の周りを粘土でつつんだ粘土槨(ねんどかく)がつくられました。
古墳の墳丘上には埴輪(はにわ)が並べられました。埴輪は素焼(すやき)の焼き物で、前期には円筒(えんとう)埴輪や家形(いえがた)埴輪などが用いられました。また、墳丘の表面には葺石(ふきいし)が敷(し)かれました。
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このことから、当時の古墳の被葬者(ひそうしゃ)は宗教的な力で政治を行っていたと考えられています。
3世紀後半といえば、邪馬台国の卑弥呼(ひみこ)が亡くなる前後の頃ですね。「魏志」倭人伝(ぎしわじんでん)によれば彼女は鬼道(きどう)、つまり呪術的な力で国を治めていたとされていますから、前期の古墳の特徴と辻褄(つじつま)が合います。
なお、3世紀後半につくられたとされる奈良県桜井市にある箸墓(はしはか)古墳は全長約280mもある我が国最古クラスの前方後円墳ですが、卑弥呼の墓ではないかとする説もあるようです。ちなみに、箸墓古墳は纒向(まきむく)遺跡の箸中(はしなか)地区に位置しており、纒向遺跡からは3世紀前半頃の大型建物跡が発見されています。
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古墳時代も中期に入った5世紀前半には、大阪府羽曳野市(おおさかふはびきのし)にある応神天皇陵(おうじんてんのうりょう)や、大阪府堺市堺区にある仁徳天皇陵(にんとくてんのうりょう)などの巨大な前方後円墳がつくられました。なお、最近の教科書では応神天皇陵のことを「誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳」、仁徳天皇陵のことを「大仙陵(だいせんりょう)古墳」と記しています。
これらの古墳は平野の中に墳丘を盛り上げ、周囲に濠(ほり)をめぐらせた構造をしていますが、なかでも仁徳天皇陵は全長約486mと世界最大級の墳墓(ふんぼ)となっています。また、応神天皇陵も全長約425mと全国第2位の規模を誇(ほこ)っています。
古墳時代の中期の副葬品は、それまでの呪術的な性格のものが姿を消し、鉄製の刀剣や甲冑(かっちゅう)あるいは馬具(ばぐ)などの武器や武具が多くなりました。このことから、当時の被葬者に政治的・軍事的支配者としての性格が強まったと考えられます。
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古代の天皇には、高いところにのぼって国を見渡し、その様子を褒(ほ)め称(たた)えることによって、天皇のお言葉で国を良くするという「国見(くにみ)」の風習がありました。ある日のこと、仁徳天皇は難波高津宮(なにわのたかつのみや)から人家(じんか)を眺(なが)められた際に、かまどから煙が立ちのぼっていないことに気が付かれました。
「民のかまどより煙がたちのぼらないのは、貧しくて炊くものがないからではないか。都ですらこうなのだから、地方はなおひどいことであろう」。そう思われた仁徳天皇はすぐさま3年間税を免除され、宮殿の屋根が傷んでもそのままにされていました。
やがて3年が経ち、改めて宮殿から外を眺められると、人家のあちこちのかまどから煙が立ちのぼっていました。国民が食事をできるようになって良かったと天皇は満足げにその様子を見つめられるとともに、以下の御製(ぎょせい、天皇による和歌のこと)をお詠(よ)みになったと伝えられています。
「高き屋(や)に のぼりて見れば 煙(けぶり)立つ 民(たみ)のかまどは にぎはひにけり」
以上は有名な「民のかまど」のエピソードですが、実はこの話には続きがあります。
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「朕(ちん)はすでに富んだ。喜ばしいことだ」。
天皇のお言葉に対し、皇后陛下は怪訝(けげん)そうに仰られました。
「宮殿のあちこちが崩れ、屋根が破れているのに、どうして富んだと言えるのですか」。
皇后陛下のお言葉に対して、仁徳天皇は微笑(ほほえ)みしながら仰られたそうです。
「国は民(たみ)が本(もと)である。その民が富んでいるのだから、朕も富んだということなのだ」。
この後、天皇はさらに3年ものあいだ引き続き税を免除され、6年後にようやく税を納めさせるとともに、宮殿の修理をお許しになりました。すると、仁徳天皇の善政に感謝していた多くの国民が誰に強制されるわけでもなく自ら進んで修理をはじめ、あっという間に立派な宮殿ができあがったと伝えられています。
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ところで、仁徳天皇の善政は「民のかまど」のエピソードだけではないことを皆さんはご存知でしょうか。実は、以下のような輝かしい業績を残されておられるのです。
1.難波(なにわ)の堀江(ほりえ)を開削(かいさく)したこと
2.茨田堤(まんだのつつみ、現在の大阪府寝屋川市付近)を築造したこと
3.山背(やましろ、後の山城)の栗隈県(くるくまのあがた、現在の京都府城陽市西北~久世郡久御山町付近)に灌漑(かんがい)用水を引かせたこと
4.茨田屯倉(まむたのみやけ、屯倉とは天皇の直轄領のこと)を設立したこと
5.和珥池(わにのいけ、現在の奈良市付近か)や横野堤(よこののつつみ、現在の大阪市生野区付近)を築造したこと
6.灌漑用水として感玖大溝(こむくのおおみぞ、現在の大阪府南河内郡河南町付近)を掘削(くっさく)し、広大な田地を開拓したこと
7.紀角宿禰(きのつののすくね、武内宿禰=たけのうちのすくねの子)を朝鮮半島の百済(くだら)へ遣(つか)わし、初めて国郡の境を分け、郷土の産物を記録したこと
国民の幸福を常に願われた仁徳天皇は、彼らが飢(う)えないように農地を確保し、また治水(ちすい)を行って水害を防ぐなど、その在位中に大規模な土木工事を何度も行われました。これらの大事業によって国が豊かになり、国民は天皇に深く感謝したからこそ、崩御後に巨大な陵墓(りょうぼ)をつくったのです。
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このことから、仁徳天皇は「自分の天皇陵の建設に際して国民を強制的に労働させた人物」と否定的にとらえた見方をする人物もあるようですが、私に言わせれば、そんな人物こそが「机上(きじょう)の空論を振りかざす愚か者」でしかありません。
なぜそう断定できるのでしょうか。そのカギを握るのは「土木事業によって生み出された『あるモノ』」です。
当たり前のことですが、大規模な土木工事を行えば必ず大量の土砂が出ます。これらの土砂は、現代であればダンプカーなどに乗せて港湾の埋め立て工事に使ったりしますが、大昔にはそんな便利なものはありませんから、計画的にどこかに「盛(も)り土(つち)」することになります。
実は、古墳はこの盛り土を上手に活用してつくられたものなのです。だからこそ当時の古墳は平野部にしかなく、また仁徳天皇の場合は土木事業が大規模であったことで大量の盛り土が発生していたからこそ、世界最大級の陵墓となったのです。
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ちなみに、仁徳天皇陵の周囲に堀をめぐらせているのは、陵墓が大規模なものであることから大雨が降れば大量の土砂が流れ込む可能性があり、それを防ぐためという、いわば当然の理由があります。
これらのことは、古代から現地の土木事業にかかわってきた一般国民からすれば「空気のように当たり前のこと」でした。ところが、机上の理論を振りかざした「頭の良い」学者たちは、世間の常識よりも自分たちの考えを優先させますから、戦後になって「常識では考えられない学説」がまかり通るようになりました。
記紀などの伝説を否定する彼らによって、古墳はいつしか「権力者による支配の象徴」とされたばかりか、ついには仁徳天皇のご存在までが否定され、多くの歴史教科書で「大仙陵(だいせんりょう)古墳」と書かれている有様です。
このような一方的な歴史観を見直し、我が国の本当の歴史を取り戻すことこそが「日本創生」につながるのではないでしょうか。ちなみに、仁徳天皇陵は5世紀中頃に築造されたと推定されていますが、先述した長浜浩明氏の著書である「古代日本『謎』の時代を解き明かす」によれば、仁徳天皇の崩御は西暦428年となり、辻褄(つじつま)が合います。
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大陸の混乱状態によって周辺の諸民族に対するチャイナの影響力が弱まると、それを待っていたかのように東アジアの諸地域は次々と国家形成へと進んでいきました。
朝鮮半島では、現在の中国東北部からおこった高句麗(こうくり)が南下して、313年にチャイナの植民地であった楽浪郡(らくろうぐん)を滅ぼしました。
一方、南部では馬韓(ばかん)・辰韓(しんかん)・弁韓(べんかん)の3つの地方に分かれ、それぞれ小国の連合が形成されていましたが、4世紀の半ば頃には馬韓から百済(くだら)が、辰韓から新羅(しらぎ)がそれぞれおこりました。
かくして、朝鮮半島の北部には高句麗、南西部には百済、そして南東部に新羅の三国が成立したのです。なお、弁韓と呼ばれた朝鮮半島南部の地域は国家統一がなされず、小国分立の状態が続きました。
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なお、任那は「加羅(から)」もしくは「伽耶(かや)」とも呼ばれています。また、当時の朝鮮半島南部には大和朝廷の出先機関として「任那日本府(みまなにほんふ)」が置かれていたという記述が「日本書紀」などにあります。
一方、北方の高句麗も半島南部の鉄資源や先進技術を求めて南下策を進めていたことから、高句麗と大和朝廷とが交戦状態となりました。
現代のチャイナと北朝鮮との国境付近には、高さ約6mの大きな碑(ひ)が残されており、高句麗の「好太王碑(こうたいおうひ、別名を広開土王碑=こうかいどおうひ)」と呼ばれています。好太王碑は414年に好太王の子が亡き父の功績を称えて建立(こんりゅう)したものです。
碑文(ひぶん)によれば、高句麗の圧迫を受けた百済が大和朝廷に助けを求めたことをきっかけに日本の軍勢が海を渡り、百済・新羅を「臣民」扱いとした(=百済・新羅を日本に従わせた)ため、高句麗の好太王が朝廷の軍勢を倒すために兵を送りました。大和朝廷は高句麗と戦いましたが敗れ、404年に朝鮮半島から兵を引き上げています。
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14代の仲哀(ちゅうあい)天皇が崩御された後、后(きさき)であった神功(じんぐう)皇后が身ごもっているにもかかわらず朝鮮半島へ出兵し、新羅を初めとして百済や高句麗をも降伏させたという伝説が残っているのです。
おそらく神功皇后の頃には我が国は朝鮮半島への足がかりをつかんでいたのでしょう。なお、神功皇后が帰国後に出産されたのが後の15代の応神天皇であり、応神天皇の子が先述した16代の仁徳天皇です。
大和朝廷が朝鮮半島に足がかりを得るだけの大きな勢力を持っていたからこそ、世界最大級の前方後円墳をつくることができたのでしょう。ちなみに、仁徳天皇の子である17代の履中(りちゅう)天皇の陵(みささぎ)は「上石津(かみいしづ)ミサンザイ古墳」とも呼ばれていますが、全長が約365mもあり、全国第3位の規模を誇る巨大古墳です。
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