「宋書」倭国伝(そうじょわこくでん)などによれば、倭王の讃(さん)・珍(ちん)・済(せい)・興(こう)・武(ぶ)が相次いで南朝の宋や斉に使者を遣わし、朝鮮半島南部への軍事指揮権を認めてもらおうとしています。
要するに、我が国はチャイナの皇帝の権威を活用することで、朝鮮半島における政治的立場を有利にしようという思惑(おもわく)があったと考えられるのです。
なお、倭の五王が我が国のどの天皇にあてはまるのかということに関しては様々な説がありますが、少なくとも済は19代の允恭(いんぎょう)天皇、興は20代の安康(あんこう)天皇、武は21代の雄略(ゆうりゃく)天皇だとされています。
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なぜなら埼玉県の稲荷山(いなりやま)古墳と熊本県の江田船山(えたふなやま)古墳から出土した鉄剣(てっけん)に、それぞれ「獲加多支鹵大王(わかたけるおおきみ)」と読める銘文(めいぶん)が発見されたからです。なお、雄略天皇の別名は「大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)」であり、「幼武(わかたける)」の部分が一致するので間違いないとされています。
ところで、倭の五王がチャイナの南朝に使者を送った際の形式は、大王(おおきみ)と呼ばれた我が国の天皇が皇帝の権威に屈してその傘下(さんか)に入るという、いわゆる「臣下(しんか)の朝貢国(ちょうこうこく)」になるというものでした。
これは、前回(第93回)の講座で紹介した「冊封(さくほう)体制」そのものであり、大和朝廷にとっては屈辱(くつじょく)以外の何物でもありませんでした。この関係を解消するには、さらなる時間の経過が必要だったのです。
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例えば、大陸の進んだ土木技術が大規模な治水や灌漑(かんがい)事業を可能にしたり、優れた鉄製農具をつくることを可能とする技術が農業の生産性を大いに高めたりするなど、帰化人が我が国の産業や文化の発展に果たした役割は大きいものがありました。
また、漢字を我が国に伝えたのも帰化人でした。我が国にはそれまで文字の習慣がなかったのですが、漢字を使用して朝廷の様々な記録などを残すようになりました。
なお、我が国には漢字の伝来以前から神代文字(じんだいもじ、または「かみよもじ」)と称される古代の文字が存在したという見解もあります。
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また、6世紀に入ると百済から五経博士(ごきょうはかせ)が来日し、我が国に医学・易学(えきがく)・暦学(れきがく)のほか儒教(じゅきょう)を伝えました。さらに6世紀半ばには仏教(ぶっきょう)も百済から伝えられるなど、我が国の思想や倫理あるいは道徳といった精神的な面において大きな影響をもたらしました。
当時の我が国は、文化の面では確かに大陸や朝鮮半島に一歩先を譲(ゆず)っていましたが、そんな遅れを取り戻すかのように彼らの文化を積極的に受けいれようという姿勢が目立ちました。こういった先人の努力が、やがて花開く我が国独自の文化の原動力になったことは間違いないでしょう。
なお、仏教の伝来の年については「上宮聖徳法王帝説(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)」などに記載のある「538年」とする説と、日本書紀に記載された「552年」とする説とがあります。
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群集墳の爆発的な増加は、大和朝廷の勢力が全国に拡大することによって当時の国民の生活レベルが向上し、その結果として多くの有力者も古墳をつくるようになったためと考えられています。かつては一部の権力者のためにつくられていた古墳が、時が経つにつれて一般の有力者でも造営出来るようになったことにより、やがて古墳の内部や副葬品、さらには古墳の存在そのものの意義にも大きな変革をもたらしました。
後期の古墳内部の石室は、従来の竪穴式石室にかわって5世紀の中頃から大陸の影響を受けた横穴式石室がつくられるようになり、6世紀には全国的に広がりました。
竪穴式石室が遺体を埋葬して古墳に封じ込める意味があったのに対して、横穴式石室は遺体を安置する玄室(げんしつ)が羨道(せんどう)によって外部につながっており、いつでも追葬(ついそう)できる仕組みになっていました。
これは、竪穴式石室がひとりの人間を埋葬するための墓の性格をもっていたのに対し、横穴式石室が後から亡くなった者をあわせて葬(ほうむ)ることができるという家族墓(かぞくぼ)的な性格を持っていたこととされています。
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家族墓的な性格を持つようになって葬送儀礼(そうそうぎれい)が変化したことで、副葬品もそれまでの故人の権威を示すという意味から、故人の生前の思いが込められた内容に変化していったことをあらわしています。
また後期の古墳には、九州地方を中心に古墳内部の壁や石棺(せっかん)に朱色などの顔料を用いた彩色壁画(さいしきへきが)が描かれた装飾(そうしょく)古墳がつくられるようになったほか、7世紀中頃には近畿で天皇の陵墓を中心に八角墳(はっかくふん)がつくられました。
一方、これらの変化が定着したことで、権威の象徴としての古墳の意義が薄れると、大化(たいか)2(646)年には薄葬令(はくそうれい)が出されて墳墓の大きさが身分に応じて制限され、また仏教の普及によって火葬(かそう)が広まったこともあり、古墳文化は終焉(しゅうえん)を迎えました。
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日常生活では、古墳時代の前期から中期にかけては弥生土器の系統に属する赤焼きの土師器(はじき)が用いられましたが、5世紀中頃には朝鮮半島から伝わったとされる硬質で灰色の須恵器(すえき)も用いられるようになりました。
また、当時の男性は筒袖(つつそで)の衣に乗馬ズボン風の袴(はかま)を着用し、髪を左右に分けて耳のところで三つ編みなどに束(たば)ねる美豆良(みずら)に結っていました。女性は筒袖の衣にスカート風の裳(も)を着けて大きな髷(まげ)を結い、耳や首あるいは腕などに装身具(そうしんぐ)を身につけていました。
これらの姿は、古墳から出土した人物埴輪にも表現されています。
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春にその年の豊作を祈る祈年祭(としごいのまつり、または「きねんさい」)や、秋に一年の収穫を感謝する新嘗祭(にいなめのまつり、または「にいなめさい」「しんじょうさい」)は特に重要な行事であり、この頃までに我が国に流入した外来文化とも融合して我が国独自の伝統文化が形成されました。
なお、祈年祭や新嘗祭は、皇室の重要儀式として現代においても行われています。また、新嘗祭は明治以後に「大祭日(たいさいじつ、または「たいさいび」)」となり、現在は「勤労感謝の日」として国民の祝日になっています。
当時の人々は、海や山などの自然に神が宿ると信じて自然神を祀(まつ)ったり、祖先の神を祀るための社(やしろ)をつくったりしました。また、心身の汚(けが)れをはらい、災いから免れるために清らかな水に入って体をすすぐ禊(みぞぎ)や祓(はらい)を行い、鹿の骨を焼いて吉凶を占う太占(ふとまに)も行われました。
さらには、裁判において熱湯の中に手を入れさせ、手がただれるかどうかで真偽(しんぎ)を判断するという神判(しんぱん)の盟神探湯(くかたち)などの呪術的な風習も行われました。
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朝廷に従った豪族たちは、血縁集団としての同族関係をもとに構成された「氏(うじ)」と呼ばれる組織に編成されました。彼らは共通の祖先神である氏神(うじがみ)を祀(まつ)り、一族の長たる氏上(うじのかみ)が氏に属する氏人(うじびと)を統率(とうそつ)しました。
朝廷は各氏の家柄や能力に応じて「姓(かばね)」を与え、朝廷のもとに組織させました。このような政治的な身分秩序を氏姓制度(しせいせいど)といいます。
なお、皇室には氏に相当する特定の呼び名はありませんでした。なぜなら、当時から皇族には他と区別する必要のないほどの権威があったからで、現代の皇族の皆様が名字をお持ちでないのも、この流れをくんでおられます。
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また、大伴(おおとも)や物部(もののべ)あるいは中臣(なかとみ)のように武力など特定の能力を持った有力豪族には「連(むらじ)」が与えられ、筑紫(つくし)や毛野(けの)などの地方の有力豪族には「君(きみ)」が、その他の一般地方豪族には「直(あたえ)」が与えられました。
また、臣や連の姓をもつ豪族のうち有力な者は「大臣(おおおみ)」や「大連(おおむらじ)」に選ばれ、中央の政治は彼らを中心に進められました。
一方、地方の豪族らは「国造(くにのみやつこ)」や「県主(あがたぬし)」などの地位が与えられ、それぞれの地方の行政を担当しました。
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一方、朝廷も直属の民である「名代(なしろ)」「子代(こしろ)」を持ち、彼らに生産物を納めさせるとともに、直轄地(ちょっかつち)である「屯倉(みやけ)」を各地に設けて「田部(たべ)」と呼ばれた人々に耕作させました。
朝廷には祭祀(さいし)や軍事などの様々な職務がありましたが、これらは「伴造(とものみやつこ)」と呼ばれる氏(うじ)が分担しました。伴造に選ばれたのは秦(はた)氏などの帰化人(=渡来人)を祖先にもつ豪族が中心であり、彼らは「伴(とも)」と呼ばれる世襲(せしゅう)の職業集団や「品部(しなべ、または「ともべ」)」と呼ばれる職務における能力者を統率して朝廷に仕えました。
なお、部曲や名代・子代あるいは品部などを総称して「部民(べのたみ、または「ぶみん」)」といいました。また、捕虜(ほりょ)や罪人など部民よりさらに身分の低い者は「ヤツコ」または「奴婢(ぬひ)」と呼ばれました。
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この非常事態を救ったのが大連(おおむらじ)の大伴金村(おおとものかなむら)でした。大伴金村は、15代の応神天皇の五世の孫、すなわち来孫(らいそん)にあたる男大迹王(おおどのおおきみ)を越前(えちぜん、現在の福井県)から招いて26代の継体(けいたい)天皇として即位させることに成功しました。
継体天皇にはご即位前に二人の男子がおられました。継体天皇の崩御後にそれぞれ27代の安閑(あんかん)天皇、28代の宣化(せんか)天皇として即位されましたが、わずか数年で相次いで崩御されたため、その後は継体天皇のご即位後に武烈天皇の妹との間に生まれた29代の欽明(きんめい)天皇が即位されました。
かくして神武天皇以来の皇統が維持されるとともに、現代にも脈々と受け継がれています。
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朝鮮半島では、5世紀後半から6世紀にかけて北方の高句麗が勢力拡大を目指して南進を繰り返し、その圧迫を受けた新羅とともに、我が国が以前から勢力を伸ばしていた任那(みまな)を攻め続けました。
我が国は新羅を攻めるために任那へ援軍を送ろうとしましたが、この動きを知った新羅が現在の福岡県の地方行政官にあたる筑紫国造(つくしのくにのみやつこ)の磐井(いわい)と結んで527年に反乱を起こさせました。いわゆる「磐井の乱」のことであり、鎮圧に2年もかかった大規模な反乱でした。
一方、磐井の乱が起きる以前の512年には、大伴金村の意見によって任那西部の四郡を隣国で朝廷との友好国であった百済が支配することを認めました。
支配地が減ってしまった任那は次第に衰退し、562年にはついに新羅に滅ぼされました。これによって我が国は朝鮮半島における拠点を失いましたが、百済との友好関係は維持し続けました。
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朝廷における軍事力を担当していた物部氏に対して、蘇我氏は欽明天皇などの外戚(がいせき)となって財産権を握り、帰化人系の民族と交流して勢力を伸ばしました。なお、外戚とは自分の娘を天皇の妃(きさき)とすることで天皇の血縁者となることです。
やがて我が国に仏教が伝来すると、積極的に受けいれようとする崇仏派(すうぶつは)の蘇我氏と、禁止しようとする廃仏派(はいぶつは)の物部氏や中臣(なかとみ)氏との対立が激しくなりました。
天皇の後継者問題でも対立した蘇我馬子(そがのうまこ)と物部守屋(もののべのもりや)のあいだで587年に戦闘が起きると、これに勝利した蘇我馬子が朝廷の実権を独占しました。
なお、蘇我馬子は男性です。当時は「○子」という名前が男女を問わずに用いられていました。馬子の他に「○子」で男性の有名な歴史上の人物としては、7世紀の小野妹子(おののいもこ)が挙げられますね。
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大和朝廷が動揺(どうよう)しつつあった6世紀の後半には、東アジアでも大きな動きが見られました。中国大陸では南北朝時代などによって混乱状態が続いていましたが、北朝からおこった隋(ずい)が589年に大陸を約300年ぶりに統一したのです。この事実は、それまで朝鮮半島で独立を保っていた高句麗や百済・新羅のみならず、我が国にも大きな衝撃を与えました。
なぜなら、新たな統一国家である隋の誕生によって、それまで大陸の内に向けられていた巨大なエネルギーが外へ押し出されることとなり、東アジアにおける政治の情勢が微妙な状態になってしまったからです。
果たして、隋は陸続きの高句麗に積極的に攻め込むことで国力を高めようとしました。一度は隋の攻撃をはね返した高句麗でしたが、依然として危機にあることに変わりはありません。
隋の動向によっては、朝鮮半島がすべて侵略されるばかりか、我が国にも攻め寄せる可能性が十分考えられました。そうなれば、我が国は冊封(さくほう)体制から脱却するどころか亡国の危機を迎えかねないという非常に難しい立場に追い込まれてしまいましたが、そんなピンチに際して、誰しもがあっと驚くような強気の外交を行った人物がいたことで、我が国は大きな危機を回避することができました。
その人物こそが、かの有名な聖徳太子(しょうとくたいし)だったのです。
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