集落同士の争いは、より強い集落が周辺のいくつかの集落を統合してさらに強大になっていくという効果をもたらし、強大な集落はやがて「クニ」あるいは「小国(しょうこく)」と呼ばれる政治的なまとまりと化しました。
ところで、当時のチャイナの歴代の皇帝は、自国こそが政治や思想あるいは文化の中心であり、他の地域はすべて劣っていると見なしていました。これを「中華思想」といいます。
皇帝は周辺民族の長に対して自己に従うことを求め、逆らえば有無を言わさずに滅ぼしました。こうした力関係のもとで、服属した長には「王」などの称号を与えて現地の支配を認めるかわりに、自己を支配者として尊敬させる(=君臣関係を結ぶ)という、いわゆる「朝貢(ちょうこう)関係」を強制しました。
このような体制を「冊封(さくほう)」といい、古代の東アジアの国際秩序たる「華夷(かい)秩序」が構成されたと考えられています。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史道場」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
なお、「倭(わ)」はチャイナの当て字で、なぜ我が国にその名がつけられたかについては様々な説があり、日本人が大切にする「和」を由来とするという考えもあります。
前漢のあとを継いだ後漢(ごかん)の歴史を記した「後漢書」東夷伝(「ごかんじょ」とういでん)には、紀元57年に倭の奴国(なこく)王が後漢の首都である洛陽(らくよう)に使者を遣(つか)わして、当時の光武帝(こうぶてい)から印綬(いんじゅ)を授かったことが、続いて107年には倭国王が生口(せいこう)160人を安帝(あんてい)に献上したことが記されています。なお、生口とは奴隷(どれい)を意味していると考えられています。
奴国は今の福岡市付近にあった小国の一つとされ、同市の志賀島(しかのしま)から奴国王が光武帝から授かったとされる「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」と刻まれた金印(きんいん)が江戸時代に発見されています。
この時期にチャイナとの外交が増加したのは、北九州から西日本の各地に分立した小国の統一者たちが、チャイナの支援をとりつけることで周辺の諸国よりも優位に立とうとしたからだと考えられており、現代に残る弥生時代の埋葬施設からチャイナの鏡や武器が発見されているのも、こうした事情を物語っていると思われます。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史道場」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
「三国志(さんごくし)」の「魏志」倭人伝(「ぎし」わじんでん)によると、2世紀後半から倭国では大きな争乱が続きましたが、邪馬台国の女王である卑弥呼(ひみこ)が諸国の同意によって立つと争乱が治まり、30か国ほどを従えた連合政権が生まれました。
卑弥呼は鬼道(きどう)に優れ、宗教的な権威によって国を治めました。また邪馬台国は大人(たいじん)や下戸(げこ)などの身分差があり、ある程度の統治組織や租税・刑罰の制度も整った国であったとされています。
なお、邪馬台国や卑弥呼は「倭」と同じくチャイナの当て字で、それぞれ「大和(やまと)の国」「日(ひ)の巫女(みこ)」がなまって伝わったと考えられています。また、鬼道については様々な説があり、呪術あるいは祈祷(きとう)ではないかともいわれています。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史道場」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
239年に卑弥呼が魏に使者を遣わすと、皇帝より「親魏倭王(しんぎわおう)」の称号と金印を授けられ、多数の銅鏡(どうきょう)などが贈られました。卑弥呼は晩年、狗奴国(くなこく)の男王である卑弥弓呼(ひみくこ)と争った後に死亡し、後継として男の王が立つと国内が乱れました。
その後、卑弥呼の一族の女性である壱与(いよ、別名として台与=とよ)を新しい王として立てると、争いはようやく治まったそうです。ちなみに「壱与」の名は「魏志」倭人伝では「壹與(=壱与)」と記されていますが、その後に書かれた別のチャイナの歴史書には「臺與(=台与)」と記されています。
そして266年、魏のあとを受けた晋(しん)の首都である洛陽(らくよう)に倭国の女王が使者を遣わしたと「晋書(しんじょ)」に書かれたのを最後に、約1世紀のあいだ、倭に関する記載はチャイナの歴史書から姿を消します。これは、その後の中国大陸で政治的混乱が続き、歴史書をまとめる余裕がなかったからではないかと考えられています。
なお、邪馬台国の記載がある「魏志」倭人伝の内容に関しては様々な解釈があり、現代でも研究や論争が続いています。また、邪馬台国の位置についても九州説と畿内(きない)説(=近畿説)があり、いまだに決着がついていません。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史道場」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。