紀元前16世紀頃に黄河流域で成立した殷(いん)という王朝ではすでに青銅器(せいどうき)の鋳造(ちゅうぞう)が始まり、紀元前6世紀頃には青銅器にかわって鉄器が普及し始め、農業生産の進歩による生産力の上昇を基礎として高度の文明が発展しました。
なお、青銅器とは銅と錫(すず)を混ぜた合金(ごうきん)である青銅で作った金属器のことです。銅は古くから発見されていましたが、それだけでは硬さに難がありました。しかし、錫を混ぜることで格段に硬度が増したことから、やがて青銅器が大いに用いられるようになりました。
なお、出来たての青銅器は含まれた錫の量によって黄金(こがね)色あるいは白銀(はくぎん)色となりますが、年数が経つにつれ大気中で酸化されて緑青(ろくしょう)色になることから「青銅」と呼ばれました。ちなみに、我が国の10円硬貨も銅に微量の錫や亜鉛(あえん)を加えた青銅で出来ています。
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なお、始皇帝の「始」は「最初(一番目)」の意味であり、始皇帝の後継者はその称号を一部受け継ぎ、世代が下がるごとに「二世皇帝」「三世皇帝」という称号を受けることとされました。また、国号の「秦」は英語の「China(チャイナ)」の語源であり、中国大陸の周辺の海洋を「東シナ海」「南シナ海」と呼ぶのも、秦の名前が由来となっています。
また、始皇帝の墓の付近から「兵馬俑坑(へいばようこう)」が発見され、兵士や馬をかたどった等身大の焼き物の人形である兵馬俑が、始皇帝の墓のそばに整然と並べられています。
漢は大陸統一後も勢力の拡大を続け、武帝(ぶてい)の紀元前108年には朝鮮半島北部を中心とする地域を直轄地(ちょっかつち)とし、楽浪郡(らくろうぐん)以下の四郡を置きました。その後も大陸周辺で何度も戦乱が繰り返されたことで、周辺の諸民族は漢の影響を強く受けることになります。
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ただし、先述のとおり日本列島で水稲耕作が行われたのは今から約3000年前(紀元前10世紀頃)という見解も存在します。また、弥生文化の及んだ地域は日本列島のほぼ全域に及んだ縄文文化とは異なり、東北地方から九州南部までに留まりました。
なぜなら、北海道の気候が水稲耕作に適さなかったからです。北海道では狩猟や漁労に基礎をおき、サケやマスなどを採集する続縄文文化が続き、7世紀以降には擦文(さつもん)土器を伴う擦文文化や、オホーツク土器を伴うオホーツク文化が成立しました。
一方、沖縄などの南西諸島では貝類などを採集する南島(なんとう)文化(=貝塚文化)が栄えましたが、こうした北海道や南西諸島の文化は漁労・狩猟に基礎を置く文化でした。
水稲耕作の開始によって、人々の生活は食物採取から食物生産への段階へと入っていきました。すなわち、それまでは狩猟・漁労などの自然環境に依存(いそん)する生活から、水稲耕作が可能となったことによって、食糧を計画的に生産できる安定した経済生活へと移っていったのです。
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弥生土器は主として煮炊き用の甕(かめ)や貯蔵用の壺(つぼ)、食物を盛る鉢(はち)や高杯(たかつき)などに用いられました。
ところで、弥生土器の名称は、明治17(1884)年に東京市本郷区向ヶ岡弥生町(とうきょうしほんごうくむこうがおかやよいちょう)(現在の東京都文京区弥生二丁目)の向ヶ岡(むこうがおか)貝塚で、今までにない様式の壷が発見されたことに由来します。
なお、最初に土器が発見された向ヶ岡貝塚を含む地域は、現在では「弥生二丁目遺跡」という名で史跡(しせき)に指定されています。
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耕作用の農具には木製の鋤(すき)や鍬(くわ)が用いられ、収穫の際には石包丁(いしぼうちょう)を使用して、稲が実った部分のみを直接刈り取る穂首刈(ほくびが)りが行われました。また、もみがらを取り去る脱穀(だっこく)の際には竪杵(たてぎね)や竪臼(たてうす)が用いられ、収穫された稲を保存するための高床(たかゆか)倉庫や貯蔵穴もつくられました。
なお、収穫物を高床に、つまり床を地面より上にして保存した理由は風通しを良くするためです。収穫物を地面に直接置くと風通しが悪くなって腐敗(ふはい)してしまいますが、高床式にして風通しを良くすれば、収穫物が乾燥(かんそう)して腐敗を防ぐことができます。
高床倉庫には鼠(ねずみ)の侵入を防ぐための「ねずみ返し」がついていました。倉庫を支える柱に板状のものを取りつけたのですが、現代でも電柱などに「ねずみ返し」が使われています。
また、神社建築様式のひとつである神明造(しんめいづくり)は、この高床倉庫から発展したものと考えられています。そういえば、掘立柱(ほったてばしら)に茅葺(かやぶき)屋根が大きな特徴の伊勢神宮の神明造は、高床倉庫の外観とどこか似ていますよね。
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弥生初期の湿田は地下水位が高いことから水の補給を必要としないのですが、土壌(どじょう)の栄養が少ないこともあって生産性が低いのが欠点でした。一方、乾田は地下水位が低いので灌漑(かんがい)施設を必要とするのですが、用水の出入りを行うことによって土壌の質が良くなり、生産性が高まったのです。
乾田の開発によって、水田は湿田の頃のような小規模なものから整然と区画された大規模なものへと大きく変化していきました。静岡県の登呂(とろ)遺跡などで広大な水田跡が発見されています。
なお、農耕と平行して弥生時代にも狩猟や漁労が盛んに行われており、弥生時代の遺跡の中に骨が残っていたことから、意外にもブタの飼育が行われていた可能性が指摘されています。ブタは人間と同じ雑食であり、穀物(こくもつ)も食べるので、水稲耕作が発達した弥生時代には飼育が可能になったと思われます。
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住居も縄文時代の竪穴住居から掘立柱の平地式建物が多くなり、住居が集まってつくられた集落の規模も次第に大きくなりました。
集落が大きくなるにつれて問題となったのは、いかにして集落全体を外敵から守るかということでした。そこで人々は、集落の周りに深い濠(ほり)や土塁(どるい)をめぐらしました。このような集落のことを環濠(かんごう)集落といいます。
なお、この時代に環濠集落が広まった理由は、軍事的な緊張が高まったからです。全国各地に大きな集落がたくさんできると、その中には収穫が少なかったりするのも出てきますから、現代のように秩序がしっかりしていなければ、大豊作で潤(うるお)っている他所(よそ)の集落を狙(ねら)うなど、収穫物を求めて争うようになるのは必然でした。かくして我が国も争いの時代に入っていくようになるのです。
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また、方形(ほうけい)の低い墳丘(ふんきゅう)の周りに溝(みぞ)をめぐらした方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)も各地でつくられ、後期には大規模な墳丘墓(ふんきゅうぼ)も出現しました。岡山県の楯築(たてつき)墳丘墓や山陰地方の四隅突出型(よすみとっしゅつがた)墳丘墓などが有名です。
この時期にこのような墓が現れた大きな理由は、弥生時代に本格化した水稲耕作において、人々との共同作業を必要としたからでした。
効率よく共同作業をやろうと思えば、一定のルール、すなわち秩序が必要であるとともに、川などから水を引いて水田を整えるなど、共同作業が大規模になればなるほど秩序が重視され、集落の中でもっとも優秀な人間がリーダーとして作業をひっぱることになります。
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このようにして、人々の間に権威を持つ統一者が現れるとともに、彼らの死後の墓も時代とともに大きく進化していきましたが、こうした流れが天皇のルーツになるとともに、全国各地に現在も見られる大きな古墳(こふん)につながっているのです。
ところで、縄文時代の墓に残っていた骨には人為的(じんいてき)に傷つけられた痕跡(こんせき)が見られないことから、当時の人々に大規模な争いが起きていなかったとされている一方で、弥生時代の人骨には首がない状態で葬られたり、全身に矢を受けた状態で見つかったりしています。
これは、先述のとおり農耕社会の成立によって軍事的な緊張が高まり、各地で激しい争いが起きていたからだと推定されており、またこのことが武器などに使用する金属器の発達をうながしたと考えられます。
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このため、通常ではまず青銅器が主流となった(=青銅器時代)後に、青銅よりも優れた金属である鉄器が用いられる(=鉄器時代)ようになるのですが、我が国においては鉄器が実用的な道具としてすぐに広まりました。つまり、我が国では石器時代から青銅器時代を飛び越えていきなり鉄器時代に移行したと思われるのです。
青銅器が鉄器とほぼ同時に伝わったことで、鉄器が実用的な道具に使用された一方で、青銅器は主として集団における祭器(さいき)や宝器(ほうき)として用いられるようになりました。先述した墳丘墓の中からも、大量の青銅製の武器などの副葬品が出現しています。
青銅器は、当初は朝鮮半島から輸入されましたが、すぐに国産されたと考えられています。国産の青銅器としては銅鐸(どうたく)や銅矛(どうほこ)・銅戈(どうか)・平形(ひらがた)の銅剣(どうけん)などがあり、いずれも朝鮮半島のそれよりも大きく、また幅広いかたちでつくられています。
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ちなみに、全国各地で青銅製祭器が広まったのは、集落の政治や軍事をつかさどる統一者にとって、集団をまとめるとともに農作業を安定して行わせるためにも祭祀が大切だったからと考えられています。
一方、鉄器はその丈夫さや硬さなどから人類にとって最も身近な金属として使用され、社会の発展に大きな影響を与えました。当初は鉄製農工具として使用されましたが、次第に武器として用いられるようになり、地域の集団内の争いに威力を発揮(はっき)しました。
なお、弥生時代の代表的な遺跡としては、先述した静岡県の登呂遺跡や島根県の荒神谷遺跡のほかに、福岡県の板付(いたづけ)遺跡や佐賀県の吉野ヶ里(よしのがり)遺跡が知られており、板付遺跡や吉野ヶ里遺跡では大規模な環濠集落が有名です。
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