我が国が大陸と海で隔(へだ)てられたという地理的環境は、中国大陸や朝鮮半島と近い距離にあったために文化的交流が行われ、大陸の文明の影響を受ける一方で、日本列島に独自の歴史と文化を生み出し、育てるという効果をもたらしました。なぜなら、海という天然の防壁が、大陸の政治や軍事情勢に巻き込まれたり、あるいは異民族が大挙して侵入したりするようなことから守ってくれたからです。
現在に近い自然環境になったことで、旧石器時代に存在した大型動物が絶滅して動きの早いニホンシカやイノシシのような中小動物が多くなり、植物も亜寒帯性の針葉樹林から落葉広葉樹林に変わり、ドングリやクリなどが実るようになったほか、九州地方からはシイなどの照葉(しょうよう)樹林も広がりを見せました。
それまでの大型動物は身体が大きく動きが鈍(にぶ)かったので、人間が石槍などを使って獲物を捕まえることが可能でしたが、すばしっこい中小動物は走って追いかけていくのが大変だったことから、遠くの獲物でも捕まえやすいように弓矢が使用されるようになりました。
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また、植物の煮炊(にた)きや食物を貯蔵する目的で土器が用いられ始め、人々の食生活は格段に豊かになりました。この時代の土器は、厚手で黒褐色(こっかっしょく)のものが多く、また低温で焼いているためにもろいものが多いのが特徴で、その形も初期から後期にかけて大きく変化しています。
これらの土器は縄目の文様(もんよう)をつけているものが多いことから縄文土器と呼ばれました。縄文土器と磨製石器が使われた約16000年前から紀元前4世紀頃までを縄文時代といい、その文化を縄文文化と呼びます。
ちなみに、強い渋みのあるドングリなどの木の実や植物の根などは、いわゆる「あく抜き」をする必要がありますが、縄文時代の人々は早くからその技術を持っていたと推定されています。
なお、青森県の大平山元I(おおだいやまもといち)遺跡で平成10(1998)年に行われた発掘調査によって複数の土器片(どきへん)が見つかりましたが、この土器片を「放射性炭素年代法(炭素14年代測定法)」で調査した結果、今から約16500年前のものであることが翌平成11(1999)年に判明したことで、先述のとおり我が国の縄文文化における土器の技術が世界最古クラスであることが明らかになっています。
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魚類のほかにも貝類の採集が活発化しました。縄文時代の遺跡には、人々が食べた貝の貝殻(かいがら)などが堆積(たいせき)してできた貝塚(かいづか)が数多く残されています。貝塚からはクジラやイルカの骨が見つかっており、縄文時代の人々が共同生活を行っていたことが想定されました。なぜなら、クジラのような大きい動物をとらえようとすれば、多くの人々の共同作業が欠かせないからです。
また、縄文時代の代表的な貝塚として、明治10(1877)年に横浜に上陸したアメリカ人の動物学者であるモースが横浜から新橋へ汽車で向かう途中、大森(おおもり)駅を過ぎてすぐの崖(がけ)に貝殻が積み重なっているのを列車の窓から発見し、後に政府の許可を得て発掘調査を行った東京都の大森貝塚が知られています。
なお、後に研究結果をまとめたモースが、貝塚で発見された土器に縄目の文様がついていたことから土器を「cord marked pottery(=縄文土器)」と命名したのが、今日用いられる「縄文」の名前の由来です。
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その他にも網(あみ)を用いた漁も行っていました。また、丸木舟も各地で発見されており、八丈島(はちじょうじま)や伊豆諸島に渡るなどの航海術も身に着けていたようです。なぜなら、前述した島々にも縄文時代と見られる遺跡が残っているからです。
植物性食料としては、ドングリ・クリ・クルミなどの木の実や、ヤマイモなどの根茎類(こんけいるい)が主に採集され、木の実をすりつぶすには石皿やすり石が、根茎類を掘り起こすためには打製の石斧が使われていました。集められた食料は、集落の一角に設けられた貯蔵穴(ちょぞうけつ)に保存されました。
なお、縄文時代の晩期には水稲(すいとう)耕作(=水稲農耕)が行われた可能性が高いですが、これについては後述します。
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一つの住居には一つの家族が住み、数件の竪穴住居が寄り合って形成された集落に30~50人前後の人々が住んでいたと考えられています。
縄文時代の集落では基本的に自給自足の生活を送っていましたが、石鏃の材料になる黒曜石やサヌカイト(別名を讃岐岩=さぬきがん)、装身具用のヒスイ(別名を硬玉=こうぎょく)などの不足する物資はかなり遠方の集団との交易で手に入れていました。
なぜそんなことが分かるかというと、例えば黒曜石は旧石器時代でも述べたように火山帯でしか産出しないなど、これらはいずれも生産地が限られているにもかかわらず、全国の遺跡で発見されているからです。
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私が高校生の頃、縄文時代の文化は以下のように記述されていました。
「当時の人々は、弓矢や石槍・落とし穴などを用いて動物を捕えた。また、水辺では貝をとったり、釣り針などの骨角器で魚をとったり、木の実を採集したりするなど、自然条件に応じた様々な食料獲得の技術をもっていた」。
「縄文時代は狩猟・漁労・採集の段階にとどまり、生産力が低かった。動物や植物資源の獲得は自然条件に左右されることが多く、人々は不安定で厳しい生活を送っていたことが考えられる」。
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なぜここまで教科書の記述が変わったのでしょうか。その背景には遺跡の発掘調査による新たな発見がありました。
青森県青森市の南西の大地に位置する三内丸山(さんないまるやま)遺跡は、今から約5500年前~4000年前の縄文時代の集落跡として知られています。
遺跡はすでに江戸時代から知られていましたが、県営野球場建設に先立って平成4(1992)年から行われた発掘調査によって、前例のない巨大な集落跡が姿をあらわしたほか、膨大(ぼうだい)な量の土器や石器などの生活関連遺物や、後述する土偶(どぐう)などの祭祀(さいし)に関する遺物が出土しました。
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遺跡内の集落の大きさや、遺物や住居跡の多さから、一時期に数百名が生活したともいわれ、また近くに産出しないヒスイや黒曜石などの物資の存在から、交易も盛んに行われていたなど様々な新発見がありました。
三内丸山遺跡の発掘調査の結果、縄文時代の人々は海や森からの自然の恵みを巧(たく)みに組み合わせることによって、同じ集落で安定した生活を送っていたことが分かりました。これらの発見によって縄文時代に関する教科書の記載が書き換えられ、現在のように「豊かで安定した生活」となったのです。
遺跡の発掘調査など、新たな発見によってそれまでの「歴史の常識」が覆(くつがえ)されるのは決して珍しいことではありません。むしろ、それが正当であると認められるのであれば、正しい歴史を知るためにも大いに書き換えられるべきではないでしょうか。
もっとも、特定のイデオロギーあるいはプロパガンダを理由に事実や経緯を無視して歴史を「改竄(かいざん)」するという愚かしい行為は断じて認められませんが。
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要するに、我が国は縄文時代の頃から独自の文明の源泉があったことが明らかになったのです。そして、そんな縄文時代の頃から、我が国独自の慣習がありました。
日本列島は伝統的に自然環境が厳しく、しばしば災害が発生していました。このため、縄文時代の頃から、人々の多くがあらゆる自然現象や自然物に霊が宿ると考えて、畏(おそ)れていました。これをアニミズムといいます。人々は呪術(じゅじゅつ)によって災いを避け、豊かな収穫などの自然の恩恵を祈りました。
当時の呪術的風習を示す遺物に、女性をかたどった土偶や男性を象徴する石棒(せきぼう)などがあります。このうち土偶はハート型やミミズク型・遮光器(しゃこうき)型などがある土製の人形です。縄文時代の人々は、おそらくは病気からの回復や子孫の繁栄(はんえい)あるいは豊かな実りある生活や魔除けなどの目的のためにこれらを使用したのでしょう。
こうした信仰は、水稲耕作の発達によって集団生活が当たり前となった弥生(やよい)時代にも受け継がれ、あらゆる人間集団の中心に「全員のために集団が栄え、幸せになるように祈ってくれる存在」が必要であることを理解するようになりました。実は、この信仰が現代の天皇のご存在のルーツとなっています。
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また、死者の多くが手足を折り曲げて埋葬する方式で屈葬(くっそう)されており、これは死者の霊が生存者に災いを及ぼすことを防ぐためと思われます。
なお、縄文時代の頃には集落の中の共同墓地に埋葬されるのが一般的であり、また個人的な富の蓄積を示すような多数の副葬品が特定の人物に見られることもないことから、縄文時代の人々には貧富あるいは階級の差が大きくなかったと推定されています。
我が国の縄文文化は狩猟・漁労・採取を中心とした文化のみならず、多彩な呪術用具を使用するという精神面でも充実しており、また弓矢などの新技術や道具の発達、黒曜石の分布に見られる活発な交易活動や優れた航海術など、世界的にも引けを取らない高度な発達をとげた文化の一つといえるでしょう。
はるかに遠い祖先である縄文時代の人々が世界的にも高度な文化を持っていたという事実に、私たちは悠久(ゆうきゅう)の歴史と太古(たいこ)のロマンを感じることができますね。
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平成11(1999)年、岡山県岡山市の朝寝鼻(あさねばな)貝塚の土壌(どじょう)から発見された栽培種のイネの細胞化石が、いわゆる「プラントオパール分析法」によって今から約6000年前のものであることが分かりました。その後も30か所を上回る縄文遺跡からプラントオパールが発見されたことで、縄文時代において、すでに稲作が行われていたことが明らかになったのです。
もっとも、当時の稲作は焼畑(やきはた)耕作あるいは畑で栽培される陸稲(おかぼ、または「りくとう」)でしたが、佐賀県唐津(からつ)市の菜畑(なばたけ)遺跡などの出土物を「放射性炭素年代法(炭素14年代測定法)」などで測定した結果、日本列島で水稲耕作が行われたのが今から約3000年前(紀元前10世紀頃)であったことを、国立歴史民俗博物館の研究チームが平成15(2003)年に発表しました。
このことから、近年では縄文時代の終わりを紀元前10世紀頃とする説もあるようです。いずれにせよ、我が国の技術の素晴らしい先進性がうかがえる事実ですね。
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縄文時代の平均寿命は男女ともに約30歳と推定されており、現代とは比較にならないくらい厳しい時代でした。これらの土製品は、病気などによって早世した子供の足形や手形を埋葬前にかたどった可能性があります。
足形や手形には小さな穴が開いているものもありました。これらは副葬品として埋葬されていることから、生前に紐(ひも)を通して竪穴住居の中に吊るし、我が子の面影とともに暮らした親が亡くなった際に、我が子の形見とともに永遠の眠りについたのかもしれませんね。
なお、これらの土製品が作られた理由としては、子より親が先に亡くなった場合に親の墓に副葬した説や、子供の健やかな成長を願って作った説、あるいは祭祀用など様々な説があります。
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