弥生土器は主として煮炊き用の甕(かめ)や貯蔵用の壺(つぼ)、食物を盛る鉢(はち)や高杯(たかつき)などに用いられました。
ところで、弥生土器の名称は、明治17(1884)年に東京市本郷区向ヶ岡弥生町(とうきょうしほんごうくむこうがおかやよいちょう)(現在の東京都文京区弥生二丁目)の向ヶ岡(むこうがおか)貝塚で、今までにない様式の壷が発見されたことに由来します。
なお、最初に土器が発見された向ヶ岡貝塚を含む地域は、現在では「弥生二丁目遺跡」という名で史跡(しせき)に指定されています。
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耕作用の農具には木製の鋤(すき)や鍬(くわ)が用いられ、収穫の際には石包丁(いしぼうちょう)を使用して、稲が実った部分のみを直接刈り取る穂首刈(ほくびが)りが行われました。また、もみがらを取り去る脱穀(だっこく)の際には竪杵(たてぎね)や竪臼(たてうす)が用いられ、収穫された稲を保存するための高床(たかゆか)倉庫や貯蔵穴もつくられました。
なお、収穫物を高床に、つまり床を地面より上にして保存した理由は風通しを良くするためです。収穫物を地面に直接置くと風通しが悪くなって腐敗(ふはい)してしまいますが、高床式にして風通しを良くすれば、収穫物が乾燥(かんそう)して腐敗を防ぐことができます。
高床倉庫には鼠(ねずみ)の侵入を防ぐための「ねずみ返し」がついていました。倉庫を支える柱に板状のものを取りつけたのですが、現代でも電柱などに「ねずみ返し」が使われています。
また、神社建築様式のひとつである神明造(しんめいづくり)は、この高床倉庫から発展したものと考えられています。そういえば、掘立柱(ほったてばしら)に茅葺(かやぶき)屋根が大きな特徴の伊勢神宮の神明造は、高床倉庫の外観とどこか似ていますよね。
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弥生初期の湿田は地下水位が高いことから水の補給を必要としないのですが、土壌(どじょう)の栄養が少ないこともあって生産性が低いのが欠点でした。一方、乾田は地下水位が低いので灌漑(かんがい)施設を必要とするのですが、用水の出入りを行うことによって土壌の質が良くなり、生産性が高まったのです。
乾田の開発によって、水田は湿田の頃のような小規模なものから整然と区画された大規模なものへと大きく変化していきました。静岡県の登呂(とろ)遺跡などで広大な水田跡が発見されています。
なお、農耕と平行して弥生時代にも狩猟や漁労が盛んに行われており、弥生時代の遺跡の中に骨が残っていたことから、意外にもブタの飼育が行われていた可能性が指摘されています。ブタは人間と同じ雑食であり、穀物(こくもつ)も食べるので、水稲耕作が発達した弥生時代には飼育が可能になったと思われます。
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住居も縄文時代の竪穴住居から掘立柱の平地式建物が多くなり、住居が集まってつくられた集落の規模も次第に大きくなりました。
集落が大きくなるにつれて問題となったのは、いかにして集落全体を外敵から守るかということでした。そこで人々は、集落の周りに深い濠(ほり)や土塁(どるい)をめぐらしました。このような集落のことを環濠(かんごう)集落といいます。
なお、この時代に環濠集落が広まった理由は、軍事的な緊張が高まったからです。全国各地に大きな集落がたくさんできると、その中には収穫が少なかったりするのも出てきますから、現代のように秩序がしっかりしていなければ、大豊作で潤(うるお)っている他所(よそ)の集落を狙(ねら)うなど、収穫物を求めて争うようになるのは必然でした。かくして我が国も争いの時代に入っていくようになるのです。
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また、方形(ほうけい)の低い墳丘(ふんきゅう)の周りに溝(みぞ)をめぐらした方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)も各地でつくられ、後期には大規模な墳丘墓(ふんきゅうぼ)も出現しました。岡山県の楯築(たてつき)墳丘墓や山陰地方の四隅突出型(よすみとっしゅつがた)墳丘墓などが有名です。
この時期にこのような墓が現れた大きな理由は、弥生時代に本格化した水稲耕作において、人々との共同作業を必要としたからでした。
効率よく共同作業をやろうと思えば、一定のルール、すなわち秩序が必要であるとともに、川などから水を引いて水田を整えるなど、共同作業が大規模になればなるほど秩序が重視され、集落の中でもっとも優秀な人間がリーダーとして作業をひっぱることになります。
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このようにして、人々の間に権威を持つ統一者が現れるとともに、彼らの死後の墓も時代とともに大きく進化していきましたが、こうした流れが天皇のルーツになるとともに、全国各地に現在も見られる大きな古墳(こふん)につながっているのです。
ところで、縄文時代の墓に残っていた骨には人為的(じんいてき)に傷つけられた痕跡(こんせき)が見られないことから、当時の人々に大規模な争いが起きていなかったとされている一方で、弥生時代の人骨には首がない状態で葬られたり、全身に矢を受けた状態で見つかったりしています。
これは、先述のとおり農耕社会の成立によって軍事的な緊張が高まり、各地で激しい争いが起きていたからだと推定されており、またこのことが武器などに使用する金属器の発達をうながしたと考えられます。
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このため、通常ではまず青銅器が主流となった(=青銅器時代)後に、青銅よりも優れた金属である鉄器が用いられる(=鉄器時代)ようになるのですが、我が国においては鉄器が実用的な道具としてすぐに広まりました。つまり、我が国では石器時代から青銅器時代を飛び越えていきなり鉄器時代に移行したと思われるのです。
青銅器が鉄器とほぼ同時に伝わったことで、鉄器が実用的な道具に使用された一方で、青銅器は主として集団における祭器(さいき)や宝器(ほうき)として用いられるようになりました。先述した墳丘墓の中からも、大量の青銅製の武器などの副葬品が出現しています。
青銅器は、当初は朝鮮半島から輸入されましたが、すぐに国産されたと考えられています。国産の青銅器としては銅鐸(どうたく)や銅矛(どうほこ)・銅戈(どうか)・平形(ひらがた)の銅剣(どうけん)などがあり、いずれも朝鮮半島のそれよりも大きく、また幅広いかたちでつくられています。
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ちなみに、全国各地で青銅製祭器が広まったのは、集落の政治や軍事をつかさどる統一者にとって、集団をまとめるとともに農作業を安定して行わせるためにも祭祀が大切だったからと考えられています。
一方、鉄器はその丈夫さや硬さなどから人類にとって最も身近な金属として使用され、社会の発展に大きな影響を与えました。当初は鉄製農工具として使用されましたが、次第に武器として用いられるようになり、地域の集団内の争いに威力を発揮(はっき)しました。
なお、弥生時代の代表的な遺跡としては、先述した静岡県の登呂遺跡や島根県の荒神谷遺跡のほかに、福岡県の板付(いたづけ)遺跡や佐賀県の吉野ヶ里(よしのがり)遺跡が知られており、板付遺跡や吉野ヶ里遺跡では大規模な環濠集落が有名です。
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「およそ2500年前(紀元前3世紀)、朝鮮半島に近い九州北部で水田によるコメ作りが始まった。こうした流れは、中国大陸から朝鮮半島を経て日本列島に波及したと考えられる」。
つまり、日本列島における水稲耕作は今から約2500年前に朝鮮半島から伝わったと当然のように書かれているのですが、これは本当のことなのでしょうか。
先述したとおり、我が国で稲作が始まったのは焼畑耕作あるいは畑で栽培される陸稲(おかぼ、または「りくとう」)が約6000年前であり、水稲耕作は約3000年前(紀元前10世紀頃)であったことが近年の研究で明らかになっています。
一方、朝鮮半島での稲作は約3000年前に畑作物として栽培され、水稲耕作は紀元前千年紀中頃(約2500年前)に始まったとされています。つまり、歴史教科書の記載とは全く逆であり、日本列島から朝鮮半島へと水稲耕作が伝わった可能性が高いのです。
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「弥生文化は、農耕社会をすでに形成していた朝鮮半島から必ずしも多くない人々が新しい技術を携(たずさ)えて日本列島にやってきて、従来の縄文人とともに生み出したものと考えられる」。
上記のうち、朝鮮半島から農耕社会の技術が伝わったというのが実際には逆だったことは先述のとおりですが、では「渡来(とらい)した弥生人と従来の縄文人が共存した」というのはどうなのでしょうか。
もし北部九州に渡来した人々が増加し、東に向かって広がっていったのであれば、渡来系とみなされるDNAが東日本と西日本で大きな差があるはずですが、調査の結果、DNAの分布は全国でほぼ共通していることが分かりました。
つまり、日本人のDNAは弥生時代に渡来した人々によって大きく変化したのではなく、縄文時代から日本各地に存在していたことになります。
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歴史を振り返れば、我が国は異民族に征服されたこともなければ、民族虐殺(ぎゃくさつ)を伴う惨劇を国内で経験したこともなく、また縄文時代以降に日本民族を圧倒するような移民もありませんでした。
我が国には、古くからのY染色体が、その基本形を保ったまま現代まで連綿と続いていることが明らかになったのです。
一方、世界各地では古くから異民族同士の戦争や一方的な虐殺が行われており、現代でも中華人民共和国によって満州(現在の中国東北部)やチベット、ウイグルなどの「民族浄化」が進められています。それに比べれば、日本民族の存在は稀有(けう)であるといえるでしょう。
そして、そんな日本民族の中で2000年をはるかに超える長いあいだ、同じ男系の血脈を保ち続けておられる皇室のご存在が世界中の人々からどのように思われているかということを、私たちはもっと知るべきかもしれません。
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その一方で、我が国の起源はいわゆる「四大文明」よりも遅れており、水稲耕作などの様々な文化も中国大陸や朝鮮半島から伝わったと教科書に書かれています。
こうした記述を鵜呑(うの)みにすれば、我が国は他国(特に中国や朝鮮)に比べて「劣(おと)った国家」であるという認識を植えつけられそうですが、これらは本当のことでしょうか。
これらのうち、少なくとも水稲耕作は朝鮮半島よりも我が国のほうが早く伝来したのは先述したとおりですが、実は、我が日本列島は「日本文明」ともいうべき、世界各国とは全く異なる独自の文明を築き上げてきた特別の地域だったです。
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つまり、我が国は世界とは全く異なる独自の「日本文明」をもっていたということになりますが、放射性炭素年代法などを活用した最新の調査で明らかになった事実を考慮すれば、ハンティントンの言葉を借りるまでもなく、我が国が輝かしい歴史を誇っていることは明らかです。
我が国は、ハンティントンすら気付いていなかった、はるかに遠い過去からの独自の文明の源泉があったことをもっと認識すべきではないでしょうか。
もっとも、世界四大文明が紀元前数千年も前から繁栄していたのに対して、我が国は縄文時代が長く続いた後、弥生時代になってようやく金属器を本格的に使用するなど、他の地域より著(いちじる)しく遅れていたという解釈が成り立つかもしれません。
しかし、歴史の流れや世界の地理的な特徴などを考慮すれば、その解釈自体が間違っていることを簡単に理解できるのです。
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なぜなら、ユーラシア大陸は原則として地続きですから、やろうと思えばどこまででも遠征できるのであり、歴史的事実として、紀元前4世紀にマケドニアのアレクサンドロス大王がエジプトやペルシャを征服し、インダス川流域にまで広がる大帝国を築いています。
もし食料や財産を奪(うば)われないようにしようと思えば、自分の身は自分で守らなければいけませんし、また相手の食料や財産を奪おうと思えば、確実に奪えるように準備する必要があります。だからこそ、優れた技術や文化を持つ流れが自然と生まれたのであり、実に皮肉な話でもあります。
一方、我が国は島国ですから、基本的に外敵が攻めてくることもないし、また縄文時代のように人口に比べて食料が豊富にあれば、他の地域から奪うこともありません。要するに平和であったことから、技術や文化を発達させる「必要がなかった」だけなのです。
考えてみれば、人々の生活の発展には水や植物などの自然の存在が欠かせませんが、世界四大文明がいずれも河川の近辺から文化が栄えているなど、乾いた土地が多くて植物が育ちにくい環境に比べて、水源や山林が豊富にある我が国が大変恵まれているのがよく分かりますね。
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しかし、我が国における青銅器や鉄器の技術の進歩は目覚ましく、多くの鉄製農工具や武器、あるいは青銅製祭器がつくられたのは先述したとおりです。
つまり、我が国は外国の文化をありのままに受けいれるのではなく、日本流にアレンジしてさらに発展させるという優れた技術を昔から持っているのです。例えば、8世紀初頭までにチャイナの律令(りつりょう)制度を導入しても、しばらくしてから公地公民の原則を破って土地の私有を認めたり、征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)など律令に規定のない令外官(りょうげのかん)を数多く設置したりしました。
この他にも、16世紀に我が国に伝来した鉄砲をあっという間に大量生産することで、わずか半世紀後には世界最大の鉄砲所有国になりましたし、20世紀に飛行機が発明されると、これも半世紀足らずで世界最高水準の戦闘機である零戦(ゼロせん、零式艦上戦闘機)を開発するなど、例を挙げればキリがありません。
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一方、日本文明は伊勢神宮の式年遷宮(しきねんせんぐう)のように、物質に根拠を置かず、ある精神のかたち(木で全く同じものを20年ごとに新しく作り直すことを1000年以上も続ける)を今もなお続けている「生きた文明」です。
世界にこのような文明は、昔は他にもあったのかもしれませんが、今は我が国にしかありません。
先述したように、縄文土器は世界一古い土器ですし、また世界一古い磨製石器も出土しているのですから、日本文明をもたらした我が国は「特別の土地」であると考えたほうが自然かもしれません。
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集落同士の争いは、より強い集落が周辺のいくつかの集落を統合してさらに強大になっていくという効果をもたらし、強大な集落はやがて「クニ」あるいは「小国(しょうこく)」と呼ばれる政治的なまとまりと化しました。
ところで、当時のチャイナの歴代の皇帝は、自国こそが政治や思想あるいは文化の中心であり、他の地域はすべて劣っていると見なしていました。これを「中華思想」といいます。
皇帝は周辺民族の長に対して自己に従うことを求め、逆らえば有無を言わさずに滅ぼしました。こうした力関係のもとで、服属した長には「王」などの称号を与えて現地の支配を認めるかわりに、自己を支配者として尊敬させる(=君臣関係を結ぶ)という、いわゆる「朝貢(ちょうこう)関係」を強制しました。
このような体制を「冊封(さくほう)」といい、古代の東アジアの国際秩序たる「華夷(かい)秩序」が構成されたと考えられています。
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なお、「倭(わ)」はチャイナの当て字で、なぜ我が国にその名がつけられたかについては様々な説があり、日本人が大切にする「和」を由来とするという考えもあります。
前漢のあとを継いだ後漢(ごかん)の歴史を記した「後漢書」東夷伝(「ごかんじょ」とういでん)には、紀元57年に倭の奴国(なこく)王が後漢の首都である洛陽(らくよう)に使者を遣(つか)わして、当時の光武帝(こうぶてい)から印綬(いんじゅ)を授かったことが、続いて107年には倭国王が生口(せいこう)160人を安帝(あんてい)に献上したことが記されています。なお、生口とは奴隷(どれい)を意味していると考えられています。
奴国は今の福岡市付近にあった小国の一つとされ、同市の志賀島(しかのしま)から奴国王が光武帝から授かったとされる「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」と刻まれた金印(きんいん)が江戸時代に発見されています。
この時期にチャイナとの外交が増加したのは、北九州から西日本の各地に分立した小国の統一者たちが、チャイナの支援をとりつけることで周辺の諸国よりも優位に立とうとしたからだと考えられており、現代に残る弥生時代の埋葬施設からチャイナの鏡や武器が発見されているのも、こうした事情を物語っていると思われます。
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「三国志(さんごくし)」の「魏志」倭人伝(「ぎし」わじんでん)によると、2世紀後半から倭国では大きな争乱が続きましたが、邪馬台国の女王である卑弥呼(ひみこ)が諸国の同意によって立つと争乱が治まり、30か国ほどを従えた連合政権が生まれました。
卑弥呼は鬼道(きどう)に優れ、宗教的な権威によって国を治めました。また邪馬台国は大人(たいじん)や下戸(げこ)などの身分差があり、ある程度の統治組織や租税・刑罰の制度も整った国であったとされています。
なお、邪馬台国や卑弥呼は「倭」と同じくチャイナの当て字で、それぞれ「大和(やまと)の国」「日(ひ)の巫女(みこ)」がなまって伝わったと考えられています。また、鬼道については様々な説があり、呪術あるいは祈祷(きとう)ではないかともいわれています。
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239年に卑弥呼が魏に使者を遣わすと、皇帝より「親魏倭王(しんぎわおう)」の称号と金印を授けられ、多数の銅鏡(どうきょう)などが贈られました。卑弥呼は晩年、狗奴国(くなこく)の男王である卑弥弓呼(ひみくこ)と争った後に死亡し、後継として男の王が立つと国内が乱れました。
その後、卑弥呼の一族の女性である壱与(いよ、別名として台与=とよ)を新しい王として立てると、争いはようやく治まったそうです。ちなみに「壱与」の名は「魏志」倭人伝では「壹與(=壱与)」と記されていますが、その後に書かれた別のチャイナの歴史書には「臺與(=台与)」と記されています。
そして266年、魏のあとを受けた晋(しん)の首都である洛陽(らくよう)に倭国の女王が使者を遣わしたと「晋書(しんじょ)」に書かれたのを最後に、約1世紀のあいだ、倭に関する記載はチャイナの歴史書から姿を消します。これは、その後の中国大陸で政治的混乱が続き、歴史書をまとめる余裕がなかったからではないかと考えられています。
なお、邪馬台国の記載がある「魏志」倭人伝の内容に関しては様々な解釈があり、現代でも研究や論争が続いています。また、邪馬台国の位置についても九州説と畿内(きない)説(=近畿説)があり、いまだに決着がついていません。
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