この当時は戦国時代を勝ち抜いた新興大名や、戦争や貿易によって巨万の富を得た豪商たちが文化の担(にな)い手となりました。そんな桃山文化の特色は、新興勢力の気風にあふれた新鮮味あふれる豪華で壮大かつ華麗なものでした。
また、信長や秀吉の政策によって寺院勢力が衰退し、文化の仏教色が弱まったことで、現実的で力感のある絵画や彫刻などが多く制作されました。
この他、ポルトガル人の来航によって西洋の文化が国内に広まったことから、桃山文化は多彩なものとなりました。
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しかし、平地に城を造れば攻め込まれやすいという欠点があったため、城の周囲に幾重(いくえ)にも堀や土塁をめぐらすことで防御力を高めました。また、城の本丸には重層の天守閣を設けました。
こうして造られた城郭は、単なる防塁としてのみならず、邸宅や政庁を兼ねるようになりました。この頃の代表的な城郭としては安土城や大坂城・伏見城・姫路城などが知られています。
特に姫路城はその美しさから別名を白鷺城(はくろじょう、または「しらさぎじょう」)とも呼ばれ、江戸時代初期の建築物が現存していることから、平成5(1993)年に世界文化遺産として登録されています。
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なお、濃絵とは金箔(きんぱく)をはりつめた画面に青や赤あるいは緑などの原色を彩色したものです。また、欄間(らんま)には花鳥(かちょう)の透(すか)し彫(ぼり)が施(ほどこ)されました。
障壁画の中心となったのは狩野派(かのうは)であり、狩野永徳(かのうえいとく)が室町時代に盛んになった水墨画(すいぼくが)と我が国古来の大和絵(やまとえ)とを融合させた新しい装飾画(そうしょくが)を大成させました。「洛中洛外図屏風(らくちゅうらくがいずびょうぶ)」や「唐獅子図屏風(からじしずびょうぶ)」などの作品が有名です。
また、門人(もんじん、いわゆる弟子のこと)の狩野山楽(かのうさんらく)が「松鷹図(しょうようず)」や「牡丹図(ぼたんず)」などを描いたほか、同じ頃に海北友松(かいほうゆうしょう)や長谷川等伯(はせがわとうはく)らも優れた作品を描きました。
この他、彫刻ではそれまでの仏像彫刻が衰えて欄間彫刻が盛んとなり、家具調度品として豪華な意匠(いしょう、デザインのこと)の蒔絵(まきえ)が施されました。
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茶道は豊臣秀吉や他の有力大名の保護を受けて大いに流行し、茶室の建築や茶器の発達をうながしました。なお、秀吉は天正15(1587)年に京都の北野(きたの)で身分の上下を問わずに民衆を自由に参加させた「北野大茶湯(おおちゃのゆ)」を行っています。
当時の庶民(しょみん)の娯楽(ごらく)では、17世紀初めに出雲阿国(いずものおくに)が京都で始めたかぶき踊(おど)りが「阿国歌舞伎(おくにかぶき)」としてもてはやされ、これがやがて「女(おんな)歌舞伎」となりました。その後、江戸時代に入って女歌舞伎が禁止されると、女優の代わりに少年が演じる「若衆(わかしゅ)歌舞伎」が流行しましたがこれも禁止され、男優だけで演じる「野郎(やろう)歌舞伎」となりました。
また、琉球(りゅうきゅう)から伝わった三線(さんしん)から創られた三味線(しゃみせん)が普及したことで、三味線を伴奏に人形を操って演じる人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)も始まりました。他にも堺の商人の高三隆達(たかさぶりゅうたつ)が小歌(こうた)に節(ふし)をつけた隆達節(りゅうたつぶし)が民衆の人気を集め、盆踊りも各地で盛んに行われました。
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桃山文化の頃は庶民の生活にも変化が現れました。農村で昔ながらの萱葺(かやぶき)屋根の平屋(ひらや)が普通であったのに対して、京都や大坂などの都市では二階建ての家や瓦葺(かわらぶき)の家が見られるようになりました。
衣服では小袖(こそで)が一般に用いられ、男子は袴(はかま)を身に着けることが多く、簡単な礼服(れいふく)として肩衣(かたぎぬ)に裃(かみしも)を用いる一方で、女子は小袖の着流しが普通になり、また男女ともに結髪(けっぱつ)するようになりました。食生活が朝夕の二食から三食になり、強飯(こわめし、米を蒸して飯にしたもので、赤飯などの「おこわ」をさす)に代わって炊飯(すいはん、米に水を加えて柔らかく煮たもの)が普及し始めたのもこの頃です。
この時代に盛んになった南蛮(なんばん)貿易によって、宣教師はキリスト教(=カトリック)の布教の他に天文学や航海学・医学・地理学などの実用的な学問を伝えたほか、油絵や銅版画(どうばんが)の技法も広めました。やがて日本人の手による西洋画の影響を受けた南蛮屏風が現れ、南蛮人との交易や風俗が描かれました。
また、金属製の活字による活字印刷術(かつじいんさつじゅつ、別名を活版印刷術=かっぱんいんさつじゅつ)が伝えられるともに印刷機も輸入され、キリシタン版や天草版(あまくさばん)と呼ばれたローマ字による日本語辞書や日本古典の出版などが行われました。天草版「伊曽保(いそほ)物語(=イソップ物語)」や天草版「平家(へいけ)物語」、日本語をポルトガル語で解説した辞典である「日葡(にっぽ)辞書」などが知られています。
南蛮人によって我が国にもたらされた文化を「南蛮文化」と呼び、カステラやパン・カルタ・コンペイトウ・シャボンなどのようにポルトガル系外来語として今でも残っているものがあります。
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