当時の我が国は銀の産出が豊富であり、秀吉はこれらの天然資源を活かして東アジアの諸国と積極的に貿易を行いました。また、この頃にはチャイナを支配していた明(みん)の国力が衰えており、世界情勢の変化を見抜いた秀吉は、我が国を中心とする東アジアの新しい秩序をつくることを視野に入れ、高山国(こうざんこく、現在の台湾)やゴアのポルトガル政庁、マニラのイスパニア(=スペイン)政庁などに服属と朝貢を求めました。
しかし、明の衰退に対して新秩序を構築していたのは秀吉だけではありませんでした。天下統一によって数十万の兵力や鉄砲による強大な火薬力を誇っていた我が国でしたが、その力を国内防衛のために使用するのか、あるいは攻められる前に先制攻撃を行うのか。
遠く西洋の巨大な王国との抜き差しならない戦いが、秀吉の目の前に迫りつつありました。
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信長の後を継いだ秀吉も当初はカトリックの布教を認めていましたが、そんな彼がやがてカトリックに潜(ひそ)むイスパニアによる世界侵略の野望に気づく日がやって来たのです。
天正15(1587)年、島津氏を倒すために九州平定に乗り込んだ秀吉をカトリックのイエズス会の宣教師が当時の我が国に存在しない最新鋭の軍艦を準備して出迎えました。その壮大さに驚いた秀吉は、イエズス会による布教活動には我が国への侵略が秘められているのではないかとの疑念を持ち始めました。
そして、現地を視察した秀吉が「3つの信じられない出来事」を目にしたことによって、疑念が確信へと大きく変化したのです。
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いかに信仰のためとはいえ、我が国古来の領地を外国の所有に任せるという行為は自身による天下統一を目指した秀吉にとっては有り得ないことであると同時に、イエズス会やその裏に存在したイスパニアの領土的野心に嫌でも気づかされることになりました。
次に秀吉を待ち受けていたのは、キリシタン大名の領内において無数の神社や寺が焼かれていたという現実でした。これらはカトリックの由来であるキリスト教が「一神教」であり、キリスト以外の神の存在を認めなかったことによって起きた悲劇でもありましたが、秀吉の目には「我が国の伝統や文化を破壊する許せない行動」としか映りませんでした。
さらに秀吉を驚かせたのが、ポルトガルの商人が多数の日本人を奴隷(どれい)として強制連行していた事実でした。支配地の有色人種を奴隷扱いするのは白人にとって当然の行為であっても、天下統一を目指すことによって国民の生命や財産を守る義務があると自覚していた秀吉には「絶対に認められない行為」でした。
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しかし、秀吉は権益もあって南蛮貿易そのものを禁止することはできず、結果として禁教政策は不徹底に終わり、カトリックはその後も広まっていきました。
後に徳川家康がカトリックを信仰しないオランダやイギリスと交流を深めたことで江戸幕府とオランダとの交易が実現し、カトリックの信仰国であるイスパニアやポルトガルとの関係を完全に断ち切ることが可能となったことを考えれば、あまりにも大きな差でした。
なお、文禄(ぶんろく)5(1596)年にイスパニアの商船が土佐(とさ、現在の高知県)に漂着した際に、乗組員が世界地図を示して「イスパニアは領土征服の第一歩として宣教師を送り込んでいる」ことを誇ったという出来事があり(これを「サン=フェリペ号事件」といいます)、激怒した秀吉が京都の宣教師と信徒を捕えて長崎で処刑するという結果につながりました(これを「26聖人殉教」といいます)。
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そこで、イスパニアは勢力の衰えていた明に着目し、我が国のキリシタン大名を利用して彼らの兵力で明を征服すれば、返す刀で我が国を攻めることで侵略も可能だと考えました。つまり、明がイスパニアによって滅ぼされれば、次は我が国が確実に狙(ねら)われるということなのです。
この構図は鎌倉時代に起きた「元寇(げんこう)」そのものでもあり、イスパニアの動きをつかんでいた秀吉にとっても気が気ではありませんでした。
明がイスパニアによって征服されるのを黙って見ているわけにはいかないとすれば、秀吉にはどのような策があるのでしょうか。
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一方の我が国ですが、兵力や鉄砲による火薬力こそは充実していましたが、外航用の大きな船を建造するだけの能力が当時はありませんでした。
これらの点に着目した秀吉は、イスパニアと我が国とが同盟を結んで両国が共同して明を征服し、戦後は明国内でのカトリックの布教を許す代わりにイスパニア所有の外航用の軍艦を売却してもらうという条件を示すことによって、外交によるイスパニアとの妥協を目指しましたが、武力による我が国の侵略を断念していなかったイスパニアに拒否されてしまいました。
進退窮(きわ)まった秀吉は、自分自身がイスパニアよりも先に明を征服してしまう以外に我が国が侵略から免れる方法はないと覚悟を決めました。まさに「やられる前に、やれ」。先述した数十万の兵力や鉄砲による強大な火薬力を投入すれば、我が国単独での大陸の征服も不可能ではないと考えたのです。
秀吉のこうした決断は、天下が統一されたことで今後の領土獲得の機会を失い、力を持て余していた兵士たちに好意的に迎えられました。古代マケドニアのアレクサンドロス大王や、モンゴルの英雄チンギス=ハーンがかつて挑んだ「巨大な兵力を持つ人間が当然のように行う」遠征という名の道を、彼らと同じように秀吉も歩み始めたのです。
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秀吉は対馬(つしま、現在の長崎県対馬市)の宗(そう)氏を通じて当時の朝鮮半島を支配していた李氏(りし)朝鮮に対して「我が国が明へ軍隊を送るから協力してほしい」と使者を出しましたが、立場上は明を宗主国と仰いでいた朝鮮は秀吉の要請を拒否しました。
このため、秀吉は明を征服する前提して、やむなく朝鮮半島から攻め込んでいったのです。これこそが、天正20年(文禄元年、西暦1592年)に起きた一回目の朝鮮出兵である「文禄の役(えき)」の本当のきっかけでした。
肥前(ひぜん、ここでは現在の佐賀県)の名護屋(なごや)に本陣が置かれた日本軍は、加藤清正(かとうきよまさ)らが率いる15万の大軍で朝鮮半島に上陸して、当初は優位に戦いを進めましたが、朝鮮の李舜臣(りしゅんしん)の活躍があったり、縦に伸びきった我が国の軍勢の補給路が断たれたことで多くの兵が飢えや寒さに苦しんだりするなど、戦局は次第に我が国にとって不利な状況となり、やがて休戦となりました。
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翌慶長(けいちょう)2(1597)年に秀吉は再び朝鮮半島を攻めました。これを「慶長の役」といいますが、日本軍は当初から苦戦を強いられました。
その後、慶長3(1598)年に秀吉が亡くなったことで休戦となり、我が国は朝鮮半島から撤退しました。
秀吉の二度にわたる朝鮮出兵は、当初の「唐入り」の目的を果たせなかったばかりか、朝鮮半島へ多大な影響を及ぼしたのみならず、我が国にも豊臣家を始めとして多数の損害をもたらした結果となってしまったのです。
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