織田信長(おだのぶなが)の後を継いで天下統一を果たしたのは、信長の家臣であった豊臣秀吉(とよとみひでよし、別名を羽柴秀吉=はしばひでよし)でした。信長の血を引く後継者や多くの家臣が存在したなかで、なぜ秀吉が天下取りに名乗りを挙げることができたのでしょうか。その謎を探るためにも、まずは彼の生い立ちから振り返ってみましょう。
豊臣秀吉は天文(てんぶん)6(1537)年に尾張中村(おわりなかむら、現在の名古屋市中村区)で生まれたとされていますが、若い頃に実家を飛び出すと、やがて「木下藤吉郎(きのしたとうきちろう)」と名乗って信長の配下となりました。
始めは信長の小者(こもの、使い走りや雑用係のこと)として仕えていましたが、草履(ぞうり)取りとして極寒の中で信長の草履(ぞうり)を自らの懐(ふところ)の中に入れて温めていたというエピソードで知られるような、彼の「人たらし」たる魅力が信長の目に留まりました。
やがて秀吉は、美濃(みの、現在の岐阜県南部)の墨俣(すのまた)において誰もが失敗していた築城を現地の土豪の協力を得て短期間で完成させたといったような、非凡な才能による迅速な仕事ぶりが信長の歓心を買ったことで、常識破りの出世街道を歩んでいきました。
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秀吉は、先述した墨俣築城において現地の土豪に協力を仰いだことや、三木城(みきじょう、現在の兵庫県)や鳥取城の攻略において現地の商人から兵糧をすべて買い取って「兵糧攻め」にしたり、高松城(たかまつじょう、現在の岡山県)の攻略では、現地が低湿地帯であることを見抜いて城の周りを水没させる「水攻め」にしたりするなど、通常の武士では考えもつかない策を次々と実行していきました。
これらの献策が能力主義を第一とする信長から高く評価され、天正(てんしょう)10(1582)年の毛利(もうり)氏の攻略(=先述した高松城攻め)の頃には「羽柴秀吉」と名乗り、姫路城主(ひめじじょうしゅ)として立派な大名となっていました。
しかし、その毛利攻めの総仕上げとして信長を現地まで招いたことが仇(あだ)となり、同年旧暦6月1日の深夜に信長が家臣の明智光秀(あけちみつひで)によって本能寺(ほんのうじ)で殺されるという凶事が発生してしまいました。
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秀吉は毛利氏が信長の死を知る前に和睦(わぼく)すると、京都まで常識破りの速さで軍を引き返しました。世に言う「中国大返し」です。そして同月13日には京都の山崎(やまざき)で光秀と戦って勝利しました。これを「山崎の合戦」といいます。
敗れた光秀は、逃げる途中で落武者狩りの手にかかって死亡しました。ちなみに山崎の合戦で天王山(てんのうざん)を先に支配した秀吉側が勝ったというエピソードから、物事の正念場を「天下分け目の天王山」と表現するようになり、また光秀のあまりにも短かった天下の期間から「三日天下」という言葉が生まれました。
その後、同月27日に行われた「清洲(きよす)会議」を経て、当時幼少であった信長の孫の三法師(さんぽうし)を信長の後継者としたうえで、自らはその後見人となった秀吉は、織田家の家臣同士で敵対関係にあった柴田勝家(しばたかついえ)を天正11(1583)年に「賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い」で滅ぼすなどによって、信長のつくり上げた権力と体制の事実上の継承者としての地位を確立しました。
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天正12(1584)年、秀吉は信長の同盟者であった徳川家康(とくがわいえやす)や、信長の二男である織田信雄(おだのぶかつ)と「小牧・長久手(こまき・ながくて)の戦い」に挑みましたが、敗れてしまいました。しかし、その後に秀吉は信雄と和睦に成功し、戦いの目的を失った家康とも和睦しました。
やがて秀吉は家康に自身への臣従(しんじゅう、臣下として主君につき従うこと)を求め、自分の妹を家康の新たな正室(せいしつ、いわゆる正妻のこと)として差し出したり、母を人質として送ったりしました。こうした秀吉の容赦ない攻勢に対して家康もついに臣従を決意し、秀吉に面会して臣下の礼をとりました。
さて、天下統一を目指して大名を次々と従えた秀吉でしたが、彼の元々の身分が低いこともあって、武家の棟梁(とうりょう)たる征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に就任することが不可能でした。そのため、秀吉は皇室との縁(えにし)を深めることで、天皇の名のもとに天下に号令しようと考えました。
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関白や太政大臣となったことで、自身が朝廷から全国の支配権を委(ゆだ)ねられたと見なした秀吉は、天正13(1585)年に諸国の大名に交戦停止を命じた「惣無事令(そうぶじれい)」を出し、これに違反したとして天正15(1587)年に九州の島津義久(しまづよしひさ)を降伏させました。
また、秀吉が天正15(1587)年旧暦9月に政庁兼邸宅として聚楽第(じゅらくてい、または「じゅらくだい」)を完成させると、翌天正16(1588)年旧暦4月に後陽成(ごようぜい)天皇が聚楽第に行幸(ぎょうこう、天皇陛下が外出されること)され、秀吉が天皇の御前で家康をはじめとする有力大名の前で自身への忠誠を誓わせました。
そして天正18(1590)年、秀吉は小田原(おだわら)の北条氏政(ほうじょううじまさ)を滅ぼし、伊達政宗(だてまさむね)らの東北の諸大名を降伏させたことで、ついに天下統一の事業を完成させたのです。
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また、秀吉が天下を統一する頃までに京都や大坂・堺・伏見(ふしみ)・長崎などの重要都市や佐渡(さど)・石見(いわみ)・生野(いくの)などの鉱山を支配し、天正大判(てんしょうおおばん)などの貨幣(かへい)を鋳造(ちゅうぞう)しました。ただし、これらの貨幣は主に贈答用に使用されており、本格的な貨幣制度が確立するのは江戸時代に入ってからのことです。
信長の経済政策を引き継いだ秀吉は、天下を統一したことで関所の廃止を全国に及ぼし、一里塚(いちりづか)を築くなどして信長が進めてきた政策を完成させました。
豊臣政権は秀吉自身が独裁的な権力を握ることで成立しましたが、後には腹心の大名を五奉行(ごぶぎょう)として政務を担当させた一方で、有力な大名を五大老(ごたいろう)に任命して重要な政務を合議させるようになり、秀吉の晩年の頃までに確立しました。
ちなみに五奉行は石田三成(いしだみつなり)・浅野長政(あさのながまさ)・増田長盛(ましたながもり)・長束正家(なつかまさいえ)・前田玄以(まえだげんい)で、また大老は徳川家康・前田利家(まえだとしいえ)・宇喜多秀家(うきたひでいえ)・毛利輝元(もうりてるもと)・小早川隆景(こばやかわたかかげ)・上杉景勝(うえすぎかげかつ)で、隆景の死後に五大老と呼ばれました。
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天正10(1582)年の山崎の合戦以降、秀吉は新しく獲得した領地に次々と検地を行い、やがて全国的な規模にまで広がっていきました。これら一連の検地を「太閤検地」、または「天正の石(こく)直し」といいます。
太閤検地において、秀吉は土地の面積表示を新しい基準のもとに定めた町(ちょう)・段(たん)・畝(せ)・歩(ぶ)に統一するとともに、それまではバラバラであった枡(ます、体積を図る測定器のこと)も「京枡(きょうます)」に統一して、全国の村ごとに田畑や屋敷地の面積や等級を調査しました。
なお、それまでは360歩を1段としていたのが、米の生産効率が向上したこともあり、太閤検地によって300歩を1段に改められています。ちなみに段は「反(たん)」とも表記され、1段は10アール(=1,000平方メートル)とほぼ同じ大きさです。また、歩は「坪(つぼ)」と同じ面積であり、現代でも家や土地の面積の単位として「○○坪」と表現されることが多いですね。
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なお、田畑や屋敷地の等級に応じて、米の生産高を踏まえて定めた基準額である石盛(こくもり)を決め、石盛に面積を乗じたものが石高となりました。ちなみに、石盛の算定には先述した京枡を統一して使用しました。
また、検地帳(別名を御前帳=ごぜんちょう)には実際の耕作者の田畑や屋敷地が石高で表記され、それに応じて年貢と労役が課せられるようになりました。これを「一地一作人(いっちいっさくにん)の原則」といいます。この原則によって、一つの土地に何人もの権利が重なり合っていたのが整理され、その結果として長く続いた荘園(しょうえん)制度が完全に消滅しました。
秀吉は天下統一後の天正19(1591)年、全国の大名に対してその領国の検地帳と国絵図(くにえず)の提出を求めました。これによってすべての大名の石高が正式に定まり、大名に支配する石高に見合うだけの軍役(ぐんやく)が課される体制が出来上がるとともに、近世的な知行(ちぎょう)制度である大名知行制(だいみょうちぎょうせい)の基礎が確立しました。
なお、太閤検地によって農民は自分の田畑の所有権を法的に認められるようになりましたが、その一方で自己のすべての土地財産を大名などに知られることで、年貢の負担も厳しくなりました。天下統一が進んでいるとはいえ、いまだ戦国時代が続いているのですから、農民による抵抗があってもおかしくないはずなのですが、実際にはどうだったのでしょうか。
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要するに、安心して検地を行えるようにするために農民から武器を取り上げたわけですが、そうであっても支配者の武力が弱ければ、足元を見た農民たちは抵抗を続けたことでしょう。秀吉のように天下を統一して、それこそ数十万の兵力を持つようになったことで、初めて農民も抵抗を諦(あきら)めて、検地や刀狩に黙って従ったのです。
また、秀吉は天正19(1591)年に人掃令(ひとばらいれい、別名を身分統制令=みぶんとうせいれい)を出して、武士が町人や農民になったり、あるいは農民が商業を行ったりすることなどを禁止しました。これによって兵農分離(へいのうぶんり)が進むとともに、江戸時代の「士農工商(しのうこうしょう)」と呼ばれた社会秩序の基礎が確立しました。
もっとも、中世の惣村(そうそん)によって発達した自治的な村の運営は太閤検地後も続けられ、年貢などを村の責任で一括して納める村請(むらうけ)の制度も江戸時代に受け継がれました。
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当時の我が国は銀の産出が豊富であり、秀吉はこれらの天然資源を活かして東アジアの諸国と積極的に貿易を行いました。また、この頃にはチャイナを支配していた明(みん)の国力が衰えており、世界情勢の変化を見抜いた秀吉は、我が国を中心とする東アジアの新しい秩序をつくることを視野に入れ、高山国(こうざんこく、現在の台湾)やゴアのポルトガル政庁、マニラのイスパニア(=スペイン)政庁などに服属と朝貢を求めました。
しかし、明の衰退に対して新秩序を構築していたのは秀吉だけではありませんでした。天下統一によって数十万の兵力や鉄砲による強大な火薬力を誇っていた我が国でしたが、その力を国内防衛のために使用するのか、あるいは攻められる前に先制攻撃を行うのか。
遠く西洋の巨大な王国との抜き差しならない戦いが、秀吉の目の前に迫りつつありました。
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信長の後を継いだ秀吉も当初はカトリックの布教を認めていましたが、そんな彼がやがてカトリックに潜(ひそ)むイスパニアによる世界侵略の野望に気づく日がやって来たのです。
天正15(1587)年、島津氏を倒すために九州平定に乗り込んだ秀吉をカトリックのイエズス会の宣教師が当時の我が国に存在しない最新鋭の軍艦を準備して出迎えました。その壮大さに驚いた秀吉は、イエズス会による布教活動には我が国への侵略が秘められているのではないかとの疑念を持ち始めました。
そして、現地を視察した秀吉が「3つの信じられない出来事」を目にしたことによって、疑念が確信へと大きく変化したのです。
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いかに信仰のためとはいえ、我が国古来の領地を外国の所有に任せるという行為は自身による天下統一を目指した秀吉にとっては有り得ないことであると同時に、イエズス会やその裏に存在したイスパニアの領土的野心に嫌でも気づかされることになりました。
次に秀吉を待ち受けていたのは、キリシタン大名の領内において無数の神社や寺が焼かれていたという現実でした。これらはカトリックの由来であるキリスト教が「一神教」であり、キリスト以外の神の存在を認めなかったことによって起きた悲劇でもありましたが、秀吉の目には「我が国の伝統や文化を破壊する許せない行動」としか映りませんでした。
さらに秀吉を驚かせたのが、ポルトガルの商人が多数の日本人を奴隷(どれい)として強制連行していた事実でした。支配地の有色人種を奴隷扱いするのは白人にとって当然の行為であっても、天下統一を目指すことによって国民の生命や財産を守る義務があると自覚していた秀吉には「絶対に認められない行為」でした。
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しかし、秀吉は権益もあって南蛮貿易そのものを禁止することはできず、結果として禁教政策は不徹底に終わり、カトリックはその後も広まっていきました。
後に徳川家康がカトリックを信仰しないオランダやイギリスと交流を深めたことで江戸幕府とオランダとの交易が実現し、カトリックの信仰国であるイスパニアやポルトガルとの関係を完全に断ち切ることが可能となったことを考えれば、あまりにも大きな差でした。
なお、文禄(ぶんろく)5(1596)年にイスパニアの商船が土佐(とさ、現在の高知県)に漂着した際に、乗組員が世界地図を示して「イスパニアは領土征服の第一歩として宣教師を送り込んでいる」ことを誇ったという出来事があり(これを「サン=フェリペ号事件」といいます)、激怒した秀吉が京都の宣教師と信徒を捕えて長崎で処刑するという結果につながりました(これを「26聖人殉教」といいます)。
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そこで、イスパニアは勢力の衰えていた明に着目し、我が国のキリシタン大名を利用して彼らの兵力で明を征服すれば、返す刀で我が国を攻めることで侵略も可能だと考えました。つまり、明がイスパニアによって滅ぼされれば、次は我が国が確実に狙(ねら)われるということなのです。
この構図は鎌倉時代に起きた「元寇(げんこう)」そのものでもあり、イスパニアの動きをつかんでいた秀吉にとっても気が気ではありませんでした。
明がイスパニアによって征服されるのを黙って見ているわけにはいかないとすれば、秀吉にはどのような策があるのでしょうか。
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一方の我が国ですが、兵力や鉄砲による火薬力こそは充実していましたが、外航用の大きな船を建造するだけの能力が当時はありませんでした。
これらの点に着目した秀吉は、イスパニアと我が国とが同盟を結んで両国が共同して明を征服し、戦後は明国内でのカトリックの布教を許す代わりにイスパニア所有の外航用の軍艦を売却してもらうという条件を示すことによって、外交によるイスパニアとの妥協を目指しましたが、武力による我が国の侵略を断念していなかったイスパニアに拒否されてしまいました。
進退窮(きわ)まった秀吉は、自分自身がイスパニアよりも先に明を征服してしまう以外に我が国が侵略から免れる方法はないと覚悟を決めました。まさに「やられる前に、やれ」。先述した数十万の兵力や鉄砲による強大な火薬力を投入すれば、我が国単独での大陸の征服も不可能ではないと考えたのです。
秀吉のこうした決断は、天下が統一されたことで今後の領土獲得の機会を失い、力を持て余していた兵士たちに好意的に迎えられました。古代マケドニアのアレクサンドロス大王や、モンゴルの英雄チンギス=ハーンがかつて挑んだ「巨大な兵力を持つ人間が当然のように行う」遠征という名の道を、彼らと同じように秀吉も歩み始めたのです。
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秀吉は対馬(つしま、現在の長崎県対馬市)の宗(そう)氏を通じて当時の朝鮮半島を支配していた李氏(りし)朝鮮に対して「我が国が明へ軍隊を送るから協力してほしい」と使者を出しましたが、立場上は明を宗主国と仰いでいた朝鮮は秀吉の要請を拒否しました。
このため、秀吉は明を征服する前提して、やむなく朝鮮半島から攻め込んでいったのです。これこそが、天正20年(文禄元年、西暦1592年)に起きた一回目の朝鮮出兵である「文禄の役(えき)」の本当のきっかけでした。
肥前(ひぜん、ここでは現在の佐賀県)の名護屋(なごや)に本陣が置かれた日本軍は、加藤清正(かとうきよまさ)らが率いる15万の大軍で朝鮮半島に上陸して、当初は優位に戦いを進めましたが、朝鮮の李舜臣(りしゅんしん)の活躍があったり、縦に伸びきった我が国の軍勢の補給路が断たれたことで多くの兵が飢えや寒さに苦しんだりするなど、戦局は次第に我が国にとって不利な状況となり、やがて休戦となりました。
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翌慶長(けいちょう)2(1597)年に秀吉は再び朝鮮半島を攻めました。これを「慶長の役」といいますが、日本軍は当初から苦戦を強いられました。
その後、慶長3(1598)年に秀吉が亡くなったことで休戦となり、我が国は朝鮮半島から撤退しました。
秀吉の二度にわたる朝鮮出兵は、当初の「唐入り」の目的を果たせなかったばかりか、朝鮮半島へ多大な影響を及ぼしたのみならず、我が国にも豊臣家を始めとして多数の損害をもたらした結果となってしまったのです。
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加えて、秀吉は最近の国内の歴史学説においても「理解不能な最大の愚行」「晩年の秀吉が正常な感覚を失ったことによる妄想」などといった散々な扱いを受けており、さらには多くの歴史教科書で彼の行為を「朝鮮侵略」と断じています。
しかしながら、秀吉が朝鮮半島へ攻め込んだ本当の理由は「イスパニアへの対抗として明を先制攻撃しようと計画した際に、その通り道となることを朝鮮が拒否したから」であることを忘れてはいけません。可能性の有無はともかくとして、仮に朝鮮が我が国の「唐入り」に協力していれば、秀吉から攻められることはなかったでしょう。
秀吉の最終目標はあくまで「明の征服」であり、朝鮮半島そのものを侵略するという意図はなかったといえます。それなのに、秀吉の行為を「朝鮮侵略」と一方的に断定することは、秀吉の真意を見誤るのみならず、歴史的にも正しい表現とはいえません。従って、ここはやはり「朝鮮出兵」と表記すべきなのです。
また、秀吉に対する評価についても、朝鮮半島の人々の思いを受け止める一方で、世界史の原則である「ある民族にとっての英雄は、他民族にとっての虐殺(ぎゃくさつ)者(=戦争勝利者)である」という視点からも眺(なが)める必要があるのではないでしょうか。
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秀吉と同じように海外に遠征したアレクサンドロス大王やチンギス=ハーンにしても、英雄としての顔を持つ一方で、彼らによって虐殺されたり、滅ぼされたりした民族が大勢いるという現実を考えれば、我が国に関わらず、違う国同士で共通した歴史認識を持つということがどう考えても不可能ではないかという思いがします。
だからといって、その国にはその国で語り継ぐべき歴史が存在する以上、他国の歴史認識を一方的に間違いと決め付けることは難しいですが、逆に言えば、我が国が他国に対して、ある意味へりくだってまで他国の歴史認識に合わせる必要もないということにもつながるのではないでしょうか。
秀吉による朝鮮出兵に限らず、私たちは日本人なのですから、他国の感情には理解を示しつつも我が国の立場で堂々と歴史認識を持てばよいのであり、我が国の公教育においても当然そのような歴史を伝えていかなければならないでしょう。
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それは、秀吉が死亡した頃までに、イスパニアの勢力が衰えを見せ始めていたからなのです。
秀吉が死亡した慶長3(1598)年にさかのぼること10年前の1588年、イスパニアの無敵艦隊がイギリスとのアルマダの海戦で敗北しました。この戦いは、イスパニアとイギリスとの勢力が逆転するきっかけとなり、これ以降のイスパニアは東洋に軍事力を割(さ)く余裕がなくなってしまったのです。
もしイスパニアがアルマダの海戦に勝利していれば、明の征服も成功していたかもしれません。そうなれば、我が国の運命がどうなったのか見当もつきませんが、間違いなく断言できることは、アルマダの海戦の結果が遠く我が国にも大きな影響を及ぼしたということです。
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これらの事実を知れば知るほど、世界の歴史にも大きな流れがあり、それが我が国における歴史にすべてつながっていることがよく理解できますね。秀吉による朝鮮への出兵も、こういった世界史のレベルから見るべきだと私は思います。
さて、朝鮮出兵の失敗は結果として豊臣家による支配に大きな悪影響を与えましたが、それに加えて豊臣家には「後継者の不在」という致命的な欠陥(けっかん)がありました。
秀吉の正妻のおね(後の北政所=きたのまんどころ)との間には子がなく、甥(おい)の秀次(ひでつぐ)を後継者に指名して関白の地位を譲りましたが、文禄2(1593)年に側室の淀殿(よどどの)が秀頼(ひでより)を産むと、実子に跡を継がせたいと思うようになった秀吉は、次第に秀次を遠ざけるようになりました。
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