初めのうちは二人三脚で政治を行っていた二人でしたが、馬子による専横(せんおう)が目立ってくるようになると、崇峻天皇は、政治の実権を持てない自身の待遇に次第に不満を抱(いだ)かれるようになりました。
そんな592年10月のある日、崇峻天皇に生け捕ったイノシシが献上されました。崇峻天皇はイノシシをご覧になると、「いつかこのイノシシの首を斬るように、自分が憎いと思っている者を斬りたいものだ」と独り言を述べられました。
崇峻天皇のお言葉はやがて馬子の耳に入りました。身の危険を感じた馬子は、「殺(や)られる前に殺(や)ってしまえ」とばかりに、翌月に偽の朝廷の儀式に崇峻天皇を誘い出すと、配下の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に命じて天皇を殺害してしまいました。
我が国史上で配下の者に殺された天皇は、この崇峻天皇ただ一人です。尚、主君や親を殺すことを「弑逆」(しいぎゃく)といい、そのような人の道に背く最も悪い行いのことを「大逆」(たいぎゃく)といいます。



いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
?>主君や親を殺すことを「弑逆」(しいぎゃく)といい・・・
この時代のこの表現と
戦国時代の下剋上とは、意味合いが
全然違うんでしょうか?
?下剋上そのものは、殺すことという直接的な意味も含まれていたんでしょうか?
前回のお返事の件。
そうでしたか^^それは大変失礼しました^^;
黒田さんを一番最初に悩ませた問題児ということですね(^^A
それでも、声優さんのお名前を教えていただき、ありがとうございました^^
ちなみに、何のハーヴの香りだったんでしょうかね?
(この質問は、却下されても良いです^^;)
それでは、応援させてくださいね!
さすらい こんばんは。
「我が国史上で配下の者に殺された天皇は、この崇峻天皇ただ一人です」
ということは、テスト問題に出やすいかと思いますが
私の記憶にありません(笑)
覚えたいですが
また忘れるかもしれません(笑)
応援♪
ぴーちさんへ
黒田裕樹 こんばんは! いつも応援有難うございます!
ご質問にお答えしますね(^^♪
> ?>主君や親を殺すことを「弑逆」(しいぎゃく)といい・・・
> この時代のこの表現と戦国時代の下剋上とは、意味合いが全然違うんでしょうか?
戦国時代は極論すれば「誰もが出世できる」時代で、そのためには手段を選ばないこともありました。それまでの秩序はないに等しく、いうなれば「何でもあり」の世の中だったわけです。だからこそ、実力さえあれば主君を主君とも思わず、下の者が上の者に剋(か)つ(=勝る)という下剋上の時代でした。一方、6世紀の末頃は、蘇我氏などの実力者を除いては朝廷は他の豪族や当時の庶民にとって尊い血筋でしたから、意味合いは全く異なるという結論になりますね。
> ?下剋上そのものは、殺すことという直接的な意味も含まれていたんでしょうか?
殺す、という意味も含まれていますが、相手の権力さえ奪ってしまえば、必ずしも殺害してはいません。例えば、室町時代最後の将軍である足利義昭は、織田信長によって将軍の座を追われていますが、京から追放されただけで、殺されてはいません。
> 黒田さんを一番最初に悩ませた問題児ということですね(^^A
いえいえ、とんでもない!
「どう答えればいいのかな?」というのは、決してそういう意味で書いた訳ではないですよ。皆さんコメントの内容が多岐にわたっていて、失礼のないようにコメ返しなければ、というつもりだったんですが、誤解を招いてしまったとすればすみませんm(_ _)m
> ちなみに、何のハーヴの香りだったんでしょうかね?
> (この質問は、却下されても良いです^^;)
ごめんなさい、私にも分かりません…(´・ω・`)
さすらいさんへ
黒田裕樹 崇峻天皇の話は、テスト問題に出やすいはずなのですが、私にも記憶がありません。
どうしてでしょうね?
「たった一人だけ」というのはインパクトがある一方で、かえって忘れやすいのかもしれませんね。
応援有難うございます!
ケンシロウ こんにちは。
聖徳太子と聞いて1万円を連想するおいらに
歴史を語る資格はないと確信しましたw
でも先生のHPは学生の頃の記憶を辿ることが出来
再び勉強になるトコだと思っています。
ケンシロウさんへ
黒田裕樹 > 聖徳太子と聞いて1万円を連想するおいらに
> 歴史を語る資格はないと確信しましたw
いえいえ、それも立派な「お札の歴史」です(^^ゞ
今の20代以下の人たちは、聖徳太子が1万円札に使われていたことも知らないでしょうし。
> でも先生のHPは学生の頃の記憶を辿ることが出来
> 再び勉強になるトコだと思っています。
有難うございます。宜しければ、これからもどんどんコメントして下さい!
こみー 「殺られる前に殺ってしまえ」・・・
恐ろしいですね(´・ω・`)
言葉も恐ろしいですが、実行してしまうとは・・・
天皇もビックリ?でしょうね。。。
自分の発言?で自分が殺されるなんて。
こみーさんへ
黒田裕樹 そうですよね。
畏(おそ)れ多くも天皇を暗殺するとは…。
仰るとおり、考えただけでなく実行してしまうところがもっと恐ろしいですね。
実力者というのは、時として我々には想像もつかないことを堂々と実行してしまうものかもしれません。
「余計な一言は言うべきではない」
今回の事件が一つの大きな教訓になりそうですね。
こんばんは
ことぶきのこめや 聖徳太子あたりの話は好きです。
この先、非常に楽しみにしています。
馬子、蝦夷、入鹿は、私はそれほど嫌いではなかったります(笑)
ことぶきのこめやさんへ
黒田裕樹 光栄です。ことぶきのこめやさんを始めとする皆様のご期待に沿えるような内容を目指したいと思います。
蘇我氏は代々アクの強い政治家ですが、そんなところに憧れる人は結構多いと思いますよ。
馬子が政治の実権を握ろうと思えば、自分の血を引いている皇子を天皇に即位させればよいのですが、その条件に合う皇子は二人しかいませんでした。そのうちの一人である竹田皇子(たけだのおうじ)はまだ幼かったので、即位させるには当時では無理がありました。
もう一人の皇子は第31代の用明天皇(ようめいてんのう)の子で、19歳の厩戸皇子(うまやどのおうじ)でした。年齢的には若すぎるということもないのですが、幼少時から聡明(そうめい)の誉(ほま)れが高かったことが、馬子をためらわせました。優秀すぎる人物だと、自分のいうことを聞かなくなるおそれがあるからです。
困り果てた馬子でしたが、やがて妙案(みょうあん)が浮かびました。「男性にこだわるから前へ進まないんだ。皇室の血を引いているのならば、女性でもかまわないじゃないか!」



いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
オバrev えぇ~!(*。*)!
聖徳太子には蘇我氏の血がながれてるんですか(驚)
驚きです。
しかも、初の女性天皇は蘇我氏の権力維持のためだったとは・・・ダブルビックリ
こんばんは
ことぶきのこめや そうだったんですか~。
馬子と厩戸皇子は、仲が良いのかと思っていました。
崇仏戦争でも一緒に闘っているし。
馬子としては、有能すぎて、手に余るとこのときから思っていたんですね。
さすらい 古今東西、いつの世にも
陰で操りたい者はいるんですね。
現代でもそうなんですから
人間って、そんな生き物なのでしょう(笑)
応援♪
およよのよ 聖徳太子ですね。
蘇我馬子と聖徳太子は遠いけど血縁関係があるのは知ってました。
結構前から近親相姦しまくりの入り組んだ家系図を眺めるのが好きで(西パプスブルグ家など)WIKIの聖徳太子の所も結構すごいですよね…。
ちなみにギャグマンガ日和、知ってました(笑)
わからないふりしてごめんなさい。
しかし推古天皇が女性天皇になった理由がそこにあるとは知りませんでした。
推古天皇はたしか聖徳太子の叔母か何かだった気がしましたけど馬子と直接血がつながってましたっけ。
オバrevさんへ
黒田裕樹 聖徳太子の存在は皆さんご存知でも、蘇我氏と血がつながっていることはあまりご存じないのではないでしょうか。
また、女性天皇は従来から「つなぎ役」としての立場が多く、今回の場合も、蘇我氏の言いなりになる男性天皇までの「中継ぎ」と馬子は考えていました。しかし…。
ことぶきのこめやさんへ
黒田裕樹 蘇我馬子と厩戸皇子は物部守屋との戦いで同士であり、また血縁関係もありましたが、だからといって仲良しとは限らないのは、現実の世界でも同じですね。
馬子からしてみれば、厩戸皇子が有能すぎて自分の手に余ったからといって、二度も天皇を暗殺することはさすがに出来ませんから、慎重になるのも無理はないと考えられます。
さすらいさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、自らが先頭に立って政治を行うよりも、身代わりを立て、自分は陰に回って「フィクサー」気取りの政治家は、古代から後を絶ちません。
昭和の「キングメーカー」もそうでしたし、現代の某政党でも…。
いつも有難うございます。
およよのよさんへ
黒田裕樹 さすがによくご存知ですね(^o^)丿
聖徳太子の頃の皇族は、近親婚が許されていた時代でしたから、仰るとおり血縁関係がかなり複雑になっていますね。
> ちなみにギャグマンガ日和、知ってました(笑)
> わからないふりしてごめんなさい。
やっぱり!
およよのよさんが知らないはずがないと思っていました。大人をからかうものではありませんよ(大笑)。
> 推古天皇はたしか聖徳太子の叔母か何かだった気がしましたけど馬子と直接血がつながってましたっけ。
推古天皇の母親は馬子の姉です。したがって、馬子の姪(めい)にあたりますね。
こんばんは
mee; え~ 教科書ではさらりとしか触れられていなかったような気がするのの、こんなに込み入ってたんですね~
ん~すごいです
mee;さんへ
黒田裕樹 コメント有難うございます!
教科書では当たり障りのないことを限られた紙面でしか書けませんから、どうしても無味乾燥になってしまうんですよね。また、通常の授業でも時間の制約がありますから、あまり込み入った話は出来ません。
でも、こういうマイペースで進められる講座では、時間をかけてじっくりと解説できますからね(^_^)v
馬子からの突然の申し出にとまどった炊屋姫でしたが、馬子の野望を見抜いた彼女は、やがて自らが天皇になることを承諾しました。
炊屋姫(以下「炊」) 「分かりました。貴方の言うとおりにしましょう。但し、条件がひとつだけあります」
馬子(以下「馬」) 「何なりとおっしゃって下さい(どうせ大した条件じゃないだろう)」
炊 「厩戸皇子(うまやどのおうじ)を皇太子に選び、彼を摂政(せっしょう)とします」
馬 「!(しまった…しかし今さら「ダメです」なんて言えない…)」
こうして炊屋姫は即位して第33代の推古天皇(すいこてんのう)となられました。我が国史上初の女性天皇の誕生です。
そして、天皇の代わりに政治を行う摂政には、彼女の希望どおり厩戸皇子が就任しました。彼こそが、我が国の歴史にその名を残す「聖徳太子」(しょうとくたいし)その人なのです。



いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんにちは!
推古天皇。。さすがに天皇となられる力量だけあり
聡明な女性だったのでしょうね・・。
それにしても、黒田さんの記事が、今回ドラマ仕立てになっていて、大変興味深く読ませていただくことが出来ました^^
また、お邪魔させてくださいね!
凸
名前が・・・
オバrev 炊屋姫、後の推古天皇はさすがですね。ちゃんと見抜いて・・・って見抜けますわな普通(^^;)・・・ぎりぎりの所でその対策を立てるとは。これがあったからこそ、後の大化の改新もあったんでしょうね。
史実を動かしていった人達の人間模様といいましょうか、何とも味があってなかなか面白いですね。
それにしても、馬子(馬の子供)、厩戸(馬を泊める宿)皇子、炊屋(食事を調理する所)姫って名前は、今からでもなんとかなりませんか・・・ならんわね(^^)。
もう少し高貴な名前はなかったんだろうか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 応援感謝です!(^_^)v
仰るとおり、推古天皇は男女の区別関係なく非常に聡明な人物であったと思われます。聖徳太子が思う存分我が国のために政治ができたのも、彼女の支えあってのことですから。
ドラマ仕立てはもともと好きなほうです(^^♪
今後も講座の中で度々出てくると思いますので、宜しくお願いします\(^o^)/
オバrevさんへ
黒田裕樹 おっしゃるとおり、推古天皇は馬子の腹を見抜けた可能性は高いですが、即座に実行に移せるあたりはなかなかだと思います。いずれにせよ、蘇我氏の専横を一時期でもストップさせたことにより、前例ができて大化の改新がやりやすくなったのは確かですね。
「馬子」の名前の由来は「午年生まれ」だからという説があります。また、当時は生活の安定のためにはコメなどの生産が欠かせませんから、食事に関する名前にも意味があるかもしれませんね。
厩戸皇子の名前の由来は…明日以降に紹介しますね(^^ゞ
こみー 聖徳太子の誕生(?)にはそんなことがあったんですね(^_^;)
なんか、知ってると思ってた事の裏にも何かがあるんですね。
なんかこういう教えてもらえてない事が起こってるって思うと、歴史が楽しくなりそうです(*^_^*)
ヒロキ おぉー!
推古天皇は色々と考えてたんですね(*^_^*)
馬子も聖徳太子が摂政になることは良く思ってなかったんですね!
歴史に「もし」なんて言うのもあれですが、
もし推古天皇が聖徳太子を摂政に任命してなかったらどうなっていたんですかね^^;
馬子が政権を握る??
ドラマ仕立ての講義でとても分かりやすかったです!
なるほど!
ことぶきのこめや こういう流れで、厩戸皇子が摂政のなったんですね。
昨日までの話で、あれ?っと思いましたが、すっきりしました!
やはり、この時期から日本史は格段に面白くなっていきますね☆
さすらい こんばんは。
(どうせ大した条件じゃないだろう)
と言った馬子は
そこまで考えがあさはかだったのですかね。
しかも、「今さら「ダメです」なんて言えない…)」
なんて。。。(笑)
後世の現代では
聖徳太子の方が有名なんですから皮肉ですね。
その聖徳太子ですら
不在説があるかもしれないというのですから
益々面白くなります。
続きが楽しみです。
応援♪
こみーさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、表舞台に出てくる歴史には、我々の普段知らない裏事情が必ずといっていいほど存在します。それを知らなくても(というより知らないほうが)「受験勉強の日本史」としては成立しますが、長い人生の将来のためには、知っておくことに越したことはありません。
この講座では今後もこういうスタンスで進めていきますので、宜しくお願いします。
ヒロキさんへ
黒田裕樹 馬子にとっては天皇という「(馬子には表向きの)最高権力者」にはさせたくなかったので、まわり道をしたつもりが、何の役にも立たなかった…。まさに歴史の皮肉です。
聖徳太子がいなければ、推古天皇は下手をすると馬子の言いなりになっていたかもしれません。一度天皇を暗殺している馬子の野望がさらに強くなると…。我が国の歴史は大きく変わっていた可能性が高いですね。
「ドラマ仕立て」は今後の講義でも出てくると思いますよ、お楽しみに!(^_^)v
母親が臨月(りんげつ)の際に馬小屋の前で産気づいたため、生まれた後に厩戸皇子(うまやどのおうじ)と名付けられたという話は有名ですが、「馬小屋の前で産気づいた」といえば、西洋の偉人である「イエス=キリスト」にも似たような伝説がありますね。
また、聖徳太子の他の有名なエピソードとしては、幼少時から抜群に有能であったために、10人の全く別々の話を同時に聞き分けることができた、というのもあります。
この他にも聖徳太子には様々な伝説があり、現実の世界でも内政や外交に大活躍するのですが(これから紹介していきます)、それらがあまりにも浮世離(うきよばな)れしているということで、最近では「聖徳太子は実在しなかった」とか「聖徳太子の業績は大半がつくり話だ」などという学説も出てきています。
さらには「聖徳太子」という彼の名前の呼び方についても、最近では意見が分かれています。



いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
およよのよ まあ作り話でしょうな。
この前に法隆寺へ行った時、手に取った資料の聖徳太子伝説にびっくり。
確かに聖徳太子は凄い人だったんだろうけど信者が広めた偽伝説だと思っております。
大体なんでもできる超人ってのはどこか欠けてないとだめなんですよ。魅力半減なんですよ。
曹操、ナポレオン=ちびとか。
およよのよさんへ
黒田裕樹 > まあ作り話でしょうな。
> この前に法隆寺へ行った時、手に取った資料の聖徳太子伝説にびっくり。
> 確かに聖徳太子は凄い人だったんだろうけど信者が広めた偽伝説だと思っております。
仰るとおり、伝説にはいわゆる「尾ひれ」がつくものです。ただ、聖徳太子が我が国に与えた良い意味での影響が大きかったことで、ここまで「ふくらんだ」伝説がつくられたのでしょう。
> 大体なんでもできる超人ってのはどこか欠けてないとだめなんですよ。魅力半減なんですよ。
> 曹操、ナポレオン=ちびとか。
確かにそういう面はありますね。
だから「ギャ○○ンガ○和」の聖徳太子があれだけ人気があるのかな?(^^ゞ
ぴーち こんばんは!いつもお世話になっています^^
穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)。
こんな長い名前を昔は呼んでいたんですね~。
途中で、舌噛みそうにならなかったかしら(笑
それと、確かに聖徳太子は10人の別の方の話を聞きわけたというのは、有名な話ですよね^^
日本に初めて仏教を広めた人も、聖徳太子だと聞きました。
まあ大昔の話なので、その業績が本当に正しかったという確証は確かに難しいですよね。
生き証人が居ないんですもんね^^
それでは、応援凸
また、為になるお話を聞かせてくださいね^^
ヒロキ 聖徳太子の伝説は有名ですよね!
確かに美化されてると思うことはありますが、
昔の人の伝説なんて皆そんなものですよね(笑
もしいないとしたら聖徳太子絡みのものはどうなるんでしょうね^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > こんばんは!いつもお世話になっています^^
こちらこそいつも有難うございます!(^o^)丿
> 穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)。
> こんな長い名前を昔は呼んでいたんですね~。
> 途中で、舌噛みそうにならなかったかしら(笑
確かに舌を噛みそうな名前です(^^ゞ
1400年以上前の日本語の発音はどうなっていたんでしょうね?
> 日本に初めて仏教を広めた人も、聖徳太子だと聞きました。
仏教が本格的に広まったのは、仰るとおりこの時代からです。
いずれこの講座で紹介しますね。
> まあ大昔の話なので、その業績が本当に正しかったという確証は確かに難しいですよね。
> 生き証人が居ないんですもんね^^
「証拠は?」と問いつめられると確かにありません。しかし、これらの聖徳太子伝説がすべて虚構の世界だというのなら、何の理由でこんなに大きな話をでっち上げる必要があるのでしょうか?
「どうして本当なのか?」と問う前に「でっち上げ」と決め付ける明確な根拠を知りたいものです。
> また、為になるお話を聞かせてくださいね^^
為になるかどうかは分かりませんが…宜しくお願いしますm(_ _)m
ヒロキさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、昔の人の伝説というものは大なり小なり美化されるものです。
そんな美化された伝説の中に潜んでいる真実を突き止める作業も、歴史研究の醍醐味のひとつといえるでしょう。
「聖徳太子虚構説」を唱える人の中には、奈良時代のある政治家(いずれ紹介します)が業績をでっち上げたとしていますが、だとすれば中国の歴史書等に載っている「事実」はどう根拠付けるんでしょうね。
真実を知っているのは
オバrev 聖徳太子のやった政治改革の実績を見ると、桁外れに優秀な人物だったことは想像できますが、10人の人の話を同時に聞くなど、ちょっとホンマかいなと思う所はあります。
日本書紀は藤原不比等が編纂にタッチしていたと思うのですが、藤原氏や当時の天皇を美化するような内容になっているでしょうから、その中に出てくる聖徳太子も、どこまでが本当でどこからが嘘かは、不比等のみぞ知る?
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 聖徳太子のやった政治改革の実績を見ると、桁外れに優秀な人物だったことは想像できますが、10人の人の話を同時に聞くなど、ちょっとホンマかいなと思う所はあります。
優秀な人物だったゆえに、「聖徳太子ならそれくらいのことができたであろう」と、美化されたところは正直言ってあると思います。ただ、それは太子の政治が肯定されているからこそなんですよね。物事を否定する場合に、良く言う人はいませんし。
> 日本書紀は藤原不比等が編纂にタッチしていたと思うのですが、藤原氏や当時の天皇を美化するような内容になっているでしょうから、その中に出てくる聖徳太子も、どこまでが本当でどこからが嘘かは、不比等のみぞ知る?
今となってはそうですね。藤原不比等がどこまで手を加えているかは正直分かりませんが、少なくとも「でっち上げ」は有り得ません。他の歴史書とも組み合わせたり、史跡に残された当時の評価などを総合的に考える必要があると思います。それなのに、最近は聖徳太子を否定的に見る学説が定着した感があり、私自身は非常に違和感を感じています。そのあたりを今日(5日)の講座でふれてみたいと思います。
すなわち、歴史教育では生前に使用された名前で表現すべきであるから、聖徳太子ではなく本名の「厩戸皇子」(うまやどのおうじ)、あるいは「厩戸王」(うまやとおう)と呼ぶことにする、というのです。高校でよく使用される有名な教科書では、現実に「厩戸王」という表現が使用されています。
しかし、歴史研究で決着がついていない事柄(ことがら)を、そう簡単に変えてしまってよいものでしょうか。ましてや後世の人々が「聖徳太子」という名を贈ったという重い現実を無視してまで、呼び方の変更を急ぐ理由が他にもあるのでしょうか。
聖徳太子は、1000年を遥(はる)かに超える長い年月の間、我が国の人々に語り継がれた偉人です。また、近現代でもお札の肖像画(しょうぞうが)に何度も登場し、特に昭和33(1958)年から昭和59(1984)年まで26年の長きにわたって、我が国の最高額紙幣(しへい)である一万円札に使用されたという事実が、聖徳太子の人気が途切れることなく続いている明確な証拠となっています。
この講座では、今後も「聖徳太子」という称号で、彼の様々な業績を紹介していくことにします。



いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
さすらい こんばんは。
我々の年代では
どうしても一万円札の印象ですよね(笑)
1諭吉という言い方よりも
1聖徳としましょうか。
あ、でも、言いにくいな(笑)
応援♪
ヒロキ ・・・ということはぼくが生まれた時には1万円は諭吉だったてことでwww
「聖徳太子」という名前は死後100年後に付けられた名前なんですね!
そういえば昔の天皇の名前も後から付けられた名前だと聞いたことがあるのですが・・・。
ぴーち こんばんは!
聖徳太子という名前が死後100年経ってから・・というのは、初めて知りました^^
聖徳太子の印刷された紙幣は
やはり私も一番大好きでした^^
当たり前ですかね(^^A
それでは、応援凸
さすらいさんへ
黒田裕樹 いつも有難うございます。
> 我々の年代では
> どうしても一万円札の印象ですよね(笑)
そうですよね(笑)。子供の頃から聖徳太子のことは何も知らなくても、漠然と「えらい人」というイメージを持ち続けていました。いつの日か5万円札や10万円札が発行された暁には、聖徳太子を復活させて欲しいと密かに思っております(^_^)v
ヒロキさんへ
黒田裕樹 > ・・・ということはぼくが生まれた時には1万円は諭吉だったてことでwww
もうそんなに時が流れているんですね。ヒロキさんの世代では、聖徳太子が1万円札に使われていたこともご存じない人が多いんでしょうね。
> そういえば昔の天皇の名前も後から付けられた名前だと聞いたことがあるのですが・・・。
そのとおりです。この講座でも何人かの天皇陛下を紹介していますが、すべて崩御されてから後に名前を贈られています。一世代前の昭和天皇も、生前は今の陛下と同じく「今上天皇(=現在の天皇、という意味)」という称号でした。
但し、生前から「自分が亡くなったら○○天皇と呼んで欲しい」と語られた天皇もおられます。後醍醐天皇などがそうですが、その理由は…いずれこの講座で紹介しますね(^_^)v
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 聖徳太子という名前が死後100年経ってから・・というのは、初めて知りました^^
意外と知られていない事実ですよね。それだけ聖徳太子のイメージが定着している間接的な証明でもあります。
> 聖徳太子の印刷された紙幣は
> やはり私も一番大好きでした^^
> 当たり前ですかね(^^A
私も大好きでした(^o^)丿
25年経った今でも一万円札といえば「聖徳太子」のイメージが残っています…。
えめる 前の講義で、偉い人は後から名前が贈られる、というのがあったのを思い出しました。
100年もの間、人々に忘れられることなく尊敬されていた、人徳の高い人ですね、きっと。
だから私も、その人となりを表している「聖徳太子」のままがよいと思いました。
あ、リンクこちらからもさせて頂きます。ありがとうございます。
えめるさんへ
黒田裕樹 > 前の講義で、偉い人は後から名前が贈られる、というのがあったのを思い出しました。
仁徳天皇のことですね。彼の仁愛に満ちたエピソードは有名です。
http://rocky96.blog10.fc2.com/blog-entry-62.html
> 100年もの間、人々に忘れられることなく尊敬されていた、人徳の高い人ですね、きっと。
> だから私も、その人となりを表している「聖徳太子」のままがよいと思いました。
ご同意いただけたことに感謝します(^^♪
> あ、リンクこちらからもさせて頂きます。ありがとうございます。
こちらこそ有難うございます\(^o^)/
今後とも宜しくお願いしますm(_ _)m
100年たっても
h.hamauzu だいじょ~ぶ!
・・・しつれいしました。
おはようございます。
仮に、ですが、彼が実在していなかったとしても、
また、名前がちがっていたとしても、
それがなんなのでしょうか。という感じです。
これだけ、今なお、尊敬され続けるには理由があるはずです。
今の政治家よ!
聖徳太子くらいの伝説、つくってみぃ!!
しつれいしました
h.hamauzuさんへ
黒田裕樹 …そういうCM、確か今もありますよねぇ。私が小さい頃から続いているはずです(笑)。
> 仮に、ですが、彼が実在していなかったとしても、
> また、名前がちがっていたとしても、
> それがなんなのでしょうか。という感じです。
> これだけ、今なお、尊敬され続けるには理由があるはずです。
私もそう思います。実在しないだの、名前が違うだのgdgd言う前に、聖徳太子の「愛される理由」を真剣に考えて欲しいものです。
> 今の政治家よ!
> 聖徳太子くらいの伝説、つくってみぃ!!
そのとおり!(児○清風に)
いつもながらのスカッとするコメント、有難うございます!(^o^)丿
さて、この当時は以前に紹介したように、朝廷が屯倉(みやけ)、豪族が田荘(たどころ)と呼ばれる土地や、同じく朝廷が田部(たべ)や名代(なしろ)・子代(こしろ)、豪族が部曲(かきべ)と呼ばれる人民を所有していました。
これらの制度がうまく機能していた時代はまだ良かったのですが、聖徳太子が摂政になった頃には、蘇我氏の支配地が朝廷をおびやかすほどに大きくなっており、政治上のバランスが不安定になっていました。
このまま放っておけば、蘇我氏の勢力が朝廷を大きく上回ることで両者に争いが起こって、罪もない人民が迷惑するばかりでなく、国内の動乱が隋(ずい)などの諸外国の介入を招いて、亡国の危機にもなりかねないという、非常に困った事態になるおそれがありました。
聖徳太子は、これらの政治情勢の不安を打開するには、朝廷がすべての土地や人民を所有するという、いわゆる「公地公民制」(こうちこうみんせい)を目指すという思い切った改革しかない、と考えていました。



いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
tycoont はじめまして!タイクーンと申します。
毎回ブログ拝見させていただいております。
勢力を増長させる蘇我氏と蘇我氏の血を引きながら
推古天皇を輔弼する立場に立っていた聖徳太子は両者のパワーバランスを保つのに大変だったしょうね!
また、次回も楽しみ読ませていただきます。
あと、私のブログにリンク貼らせてもらっても
い~ですか?
さすらい こんにちは。
試行錯誤の時ですね。
もし聖徳太子が不在ということになれば
これも誰か別な者の政策なんでしょうが
続きのお話を楽しみにしています。
応援♪
tycoontさんへ
黒田裕樹 はじめまして。当ブログへのご訪問&コメント有難うございます。
仰るとおり、朝廷と蘇我氏とのパワーバランスを保つのは至難の業でした。
このバランスを崩すことなく、さらに蘇我氏の力を削ぐという離れ業をやってのけたのが聖徳太子でした。
聖徳太子の内政といえば有名なのがいくつかありますが、それらが行われた経緯にも注目していきたいと思います。
リンクの件、有難うございます。こちらこそ宜しくお願いします\(^o^)/
さすらいさんへ
黒田裕樹 そう、試練の日々です(^^ゞ
聖徳太子でなかったら、バランスを保ちながら改革ができたでしょうか?
「もしも」の世界を想定しながら歴史を学ぶのも、醍醐味のひとつですね。
応援有難うございます(^o^)/
やり手やね~
オバrev 聖徳太子は公地公民も目指していたんですか。
17条憲法や、冠位十二階や、遣隋使など、
ものすごい改革ですよね。
抵抗勢力である蘇我氏の反発はかなりあったんじゃないでしょうか?
相当なやり手ですね オオーw(*゚o゚*)wスゲー
ヒロキ なるほど!公地公民はこの頃から考えられてたのですね!!
そして乙巳の変で蘇我氏を殺害して、改新の詔で公地公民に踏み切ったわけですね。
しかし聖徳太子の力では馬子の力を抑えることはできなかったのですね(>_<)
ぴーち こんばんは!
いつの世でも、内政干渉というのは
ついて回るものなんでしょうかね・・。
今でも、日本が靖国参拝すれば、
東アジア諸国は、蜂の巣つついた騒ぎ
ですものね。。
話は変わりますが、
聖徳太子の頃は
今の日本の人口よりもはるかに少なかったでしょうから、
そういう意味ではまだまだ政治がし易く、まとまりは良かったと思うんですが、これはあくまで私の推測ですが、いかがなものでしょうか・・。
それでは応援です凸
ミュウタント 歴史的に見ても、聖徳太子の実在は疑わしいという見方が大勢を占めてきています。
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、聖徳太子が行おうとした改革は蘇我氏にとっては大問題でしたから、そのまま実行しては反発が必至でした。
したがって、究極の理想である「公地公民制」は胸に秘め、いわゆる「からめ手」から、少しずつ蘇我氏の権力を奪っていく作戦を取ったのです。
その作戦とは…具体的にはこの講座で紹介していきますね(^^♪
聖徳太子がいかに「相当なやり手」だったかがご理解いただけるものと思っております。
ヒロキさんへ
黒田裕樹 公地公民制が実現したのは大化の改新のときですが、いきなり実現できた訳ではなく、その過程に至るまでに様々なステップがありました。
聖徳太子が摂政になった頃の蘇我氏の権力は強大でしたので、その段階で蘇我氏を抑えるのは不可能でした。そこで、ステップを踏んで段階的に蘇我氏の力を弱める作戦に切り替えたのです。
そこで、聖徳太子は公地公民制という究極(きゅうきょく)の目標の実現のために、長い時間をかけて豪族や人民の立場や意識を改革していくという作戦に出ました。603年に制定された冠位十二階(かんいじゅうにかい)もその例です。
冠位十二階は、朝廷に仕える人々に対する新しい身分秩序でした。まずは階級として徳(とく)・仁(にん)・礼(らい)・信(しん)・義(ぎ)・智(ち)という6つを定め、さらに大と小とに分割することで、12段階の区別をつけました。また、それぞれの階級で、冠(かんむり)の色を以下のとおりに分けました。
大徳(だいとく、濃い紫)・小徳(しょうとく、薄い紫)・大仁(だいにん、濃い青)・小仁(しょうにん、薄い青)・大礼(だいらい、濃い赤)・小礼(しょうらい、薄い赤)・大信(だいしん、濃い黄)・小信(しょうしん、薄い黄)・大義(だいぎ、濃い白)・小義(しょうぎ・薄い白)・大智(だいち、濃い黒)・小智(しょうち、薄い黒)



いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
bunyan 黒田さんこんにちは~
留守中のコメントありがとうございました。
おかげさまで無事に退院してまいりました(*^_^*)
ご心配をいただきありがとうございます。
明日からまた記事を書き始めますのでよろしくね♪
ぴーち こんばんは!
冠位十二階は、歴史に疎い私も習った覚えがあります^^
それにしても、黒田さんのカラフルな文字が更に分かりやすくて、親切さが滲み出ていますね^^
それとあろうことか、この十二階を拝見させていただいて
「南総里見八犬伝」の8つ玉に刻まれた文字を
思い出してしまいました(^^A
それでは、応援させてくださいね^^
ヒロキ 確か、冠位十二階では蘇我氏には授与外でしたよね^^
投票しました
sisi ブログ村投票しましたよ、2位浮上すごいね。
冠位十二階も、しっかり分けていますよね。
bunyanさんへ
黒田裕樹 お帰りなさい!
お元気そうで何よりです。
またお互いのブログを行き来できる日々を送ることができるのを嬉しく思います(^o^)丿
ぴーちさんへ
黒田裕樹 せっかくの天然色ですから、12の階級を色分けさせていただいたんですよ。
「濃い白」と「薄い白」の区別が大変でしたけど…(^^ゞ
「南総里見八犬伝」ですか!
その発想はなかったですね(^^♪
応援有難うございます!(^o^)丿
ヒロキさんへ
黒田裕樹 > 確か、冠位十二階では蘇我氏には授与外でしたよね^^
そのとおりです!
明日にでも詳しく書きますので宜しくお願いします。
「ヒロキ」同士のせいか、以心伝心が多いですね(^^ゞ
sisiさんへ
黒田裕樹 > ブログ村投票しましたよ、2位浮上すごいね。
いつも有難うございます。応援してくださる皆様のおかげです。
感謝の気持ちも込めて、より良い内容のブログを目指していきたいですね。
> 冠位十二階も、しっかり分けていますよね。
フルカラー(?)のブログですから、特性を思いっきり活かさせてもらいました(笑)。
お褒めに預かり光栄です。
その一方で、蘇我氏は冠位の例外とされていました。おそらくは従来どおりの大臣(おおおみ)として、冠位をもらう側よりも授(さず)ける立場にあったからと考えられています。さすがの聖徳太子も、蘇我氏の立場にまで踏み込んで改革することはできなかったのでした。
しかし、曲がりなりにも昇進が可能な身分制度ができたことにより、冠位を授ける立場の朝廷の権力は向上し、相対的に蘇我氏の権力が後退する遠因(えんいん)をつくったことにもなったのです。
尚、冠位十二階によって大礼(だいらい、濃い赤の冠)の地位にいたある男性が、後に外交における活躍が認められて、最高位の大徳(だいとく、濃い紫の冠)にまで出世した事実が伝えられています。
その男性の名は、小野妹子(おののいもこ)と呼ばれています。



いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
さすらい こんにちは。
小野妹子は有名ですね。
何となくすぐ覚えられました(笑)
この制度によって
蘇我氏の権力が後退ですか。
歴史の流れがあったのでしょうね。
応援♪
さすらいさんへ
黒田裕樹 今回のように、きっかけがあれば覚えやすいんですよね。無理に暗記するから残らなくなります。
蘇我氏の権力は突然になくなったわけではなく、何らかのかたちで、大なり小なりの影響があったと考えられます。冠位十二階の制度も、後から考えれば、ボディーブローのように効いているんですよね。
まるで初代のロッキーのように(笑)。
いつも有難うございます(^o^)/
わあ、コメント消してもうた!
h.hamauzu こんにちは!
コメントを書いていたのですが、うっかり消してしまいました。
小野妹子が聖徳太子の制度によって取り立てられたんですね、とか、私は紫が好きです・・・とか、
つまらないことですがw
12色のユニフォーム
tycoont 黒田裕樹さん、こんにちは!
聖徳太子は蘇我氏を冠位の例外としながらも、
(上に祭り上げておきながら)「冠位十二階位」
という別の階級をつくり、蘇我氏をはじめとする、
旧勢力に対抗しうる人材・勢力が出世できる
新たなルートをつくったんですね

しかも、十二の色に分かれているから、
位が明確かつ客観的ですね

(なんとも、心憎い!聖徳太子の苦心の程が
伺えます

h.hamauzuさんへ
黒田裕樹 > コメントを書いていたのですが、うっかり消してしまいました。
私もたまにやってしまいます(>_<)
一度消されてしまったにもかかわらず、再度コメントを書いて下さって有難いです。
> 小野妹子が聖徳太子の制度によって取り立てられたんですね、とか、私は紫が好きです・・・とか、
小野妹子は聖徳太子のお陰で出世したといっても過言ではないですね。もっとも、そこまでの実力があればこそでもありますが(いずれ講座で紹介します)。
紫は古来より高貴な色とされていますからね。紫色の法衣(ほうい)や袈裟(けさ)は高僧が朝廷より賜(たまわ)りますし、大相撲でも紫の化粧回しは大関以上に許されています。
私は…歳を重ねてからは名前に合わせて(?)黒が好みですね(笑)。
tycoontさんへ
黒田裕樹 こんばんは!
お言葉、まさに我が意を得たりの思いです。
ひとつの政策が行われる背景には、必ずといっていいほど隠された理由があります。その理由を知らずして歴史を学んだり、語ったりしても意味がありません。
昨今の歴史教育に最も欠けている点だと思います。
bunyan こんばんは~
黒田さんの講座を見てると、学生時代を思い出して懐かしくなります。
お返しのポチ&拍手しておきますね。
27日の歴史講座の成功を祈ってますσ(゚ー^*)
ぴーち こんばんは!いつも応援ありがとうございます^^
現代の政治家も、世襲制重視せずに
この時代のように、民間からの実力や才能のあるものを
どんどん登用して行って欲しいと思いますね。
それと・・この「冠位十二階」のように
冠の色分けで階級が一目で分かる方法というのは、柔道などの競技にも応用されているんでしょうか?
なんて、ちょっと思ってしまいました^^;
それでは、応援です凸
歴史の醍醐味
tycoont お褒めの言葉有難うございます

後世の人間は歴史の結末を知っていますからね

黒田裕樹さんが仰るように、
「なぜ、このような政策が必要っだのか?」
と考えることこそが、歴史を学ぶ醍醐味だと思います

凄いぞ聖徳太子
オバrev なるほど、蘇我氏に冠位を授けるとなると蘇我氏よりも上ということになるから、あなたは特別だから冠位十二階の位は授けませんよ、とでも言われたら、確かに自分が下と認めるわけにいかないから、聖徳太子の企みが分かっていても認めざるを得ない。
そして、人事権を握って自分が抜擢してきた優秀な若者をどんどん増やし、蘇我氏の影響力を消していったんだろうな。
蘇我氏も地団駄踏んで悔しがったことでしょう。当然殺害も企てたと思うのですが、どうなんでしょうか。
というよりも、聖徳太子は表で大義名分を述べながら、裏でも色々手を回していたかもしれん。
凄いぞ、聖徳太子!
そしてその中から出てきたのが小野妹子ですか。
でも初の遣隋使ってことしか知りません。
こうして編み出されたのが、我が国最初の成文法(せいぶんほう)であり、後年の法典(ほうてん)の編さんにも大きな影響を与えたとされる、604年に制定された憲法十七条(けんぽうじゅうしちじょう)でした。
憲法十七条は文字どおり17の条文に分かれていますが、このうち最も有名なのは、第1条の「和(わ、または「やわらぎ」)を以(も)って貴(とうと、または「たっと」)しとなし…」の部分ですね。
これは「和の尊重が我が国にとって何よりも大事であり、みだりに争いを起こさないようにしなければならない」という意味です。似た内容の条文が最後の第17条にもあり、こちらは「物事の判断は一人では行わず、皆で話し合って決めなさい」と説(と)いています。
この「和」や「話し合い」を重要視する姿勢は、現代に生きる我々にもつながっていると思いませんか?



いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
オバrev 17条憲法は、日本最初の憲法ですね。
ということは、ゼロから作ったわけで、それは大変だったろうと思います。
大日本国憲法は、確かドイツのワイマール憲法を元に作ったけど、この17条憲法は、何か元になるものがあったんでしょうか?
さすらい こんばんは。
そうですよね。
和の発想は古来よりなんですね。
我が国の誇りの姿勢
ぜひとも受け継いでいきたいものです。
応援♪
智里 十七条憲法の有名な部分ってみんな知ってるけど、他の文章って知ってる人っているの?
日本最初の憲法なのに、十七条のうち1条も知らないのって問題あるよね。
この質問を中学と高校の社会の先生にしたら逆切れされて、むっちゃ怒られたさ(_≧Д≦)ノ彡バンバン☆
最近はネットで調べられるけど、20年も前の先生方は知らなかったんだろうね。
黒田さんは全部知ってました?
bunyan こんばんは~
昨日拍手ボタンを押そうと思ったら、どこにもないので焦りました(´∵`)
黒田さんはボタンを貼ってないんですね。
ではランキングを余計に押していきますヽ(*’-^*)。
オバrevさんへ
黒田裕樹 憲法十七条は、我が国のしきたりと諸外国の思想の「合作」と言えるでしょう。
我が国のしきたりは第1条や第17条にあるような「和の尊重」や「話し合いの重視」ですね。
諸外国の思想は…明日の講座で紹介しますね(^^♪
さすらいさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、604年の段階で聖徳太子は我が国のしきたりをしっかりと把握していたのです。
私たちもしっかりと受け継いでいきたいですね。
それにしても、調べれば調べるほど聖徳太子の凄さには舌を巻く思いがします。
応援ありがとうございます!
ぴーち こんばんは!
十七条憲法のお話ですね!
第一条の「和を以って貴としとなし・・」
なるほど、現在の日本国憲法の九条にも通じる原点を見たように感じました。
九条は最近、再び議論がありましたが、九条無くしては
日本の平和は成り立たないと信じております。
話が脱線してしまい、恐縮です^^;
和、対話は必要不可欠ですよね!
北朝鮮にも教えて差し上げたいです。。
それでは、応援させてください^^
また、お邪魔します♪
智里さんへ
黒田裕樹 > 十七条憲法の有名な部分ってみんな知ってるけど、他の文章って知ってる人っているの?
先生が「本当の歴史好き」か、単なる「受験のための歴史」かどうかで答えが異なりますね。
逆切れした先生は後者ではないでしょうか。「受験に関係ないことを聞くな!」とか(笑)。
> 黒田さんは全部知ってました?
…厳しいご質問ですね(^^ゞ
条文の丸暗記はさすがにできませんが、内容はほとんど頭に入っている
明日の更新で他の条文についても紹介しますので、またご感想をお聞かせくださいね(^o^)丿
bunyanさんへ
黒田裕樹 拍手は有難いんですが、コメ返に集中したいのであえて設けておりません。
焦らせてしまって恐縮ですm(_ _)m
ランキングへのご協力、いつも有難うございます!\(^o^)/
ぴーちさんへ
黒田裕樹 ぴーちさんのブログで熱く語ってしまった黒田です(^^ゞ
「和の尊重」や「話し合い重視」は、我が国のしきたりともいうべき歴史があります。我が国においては立派に通用しますが、しきたりの異なる他国にまで適用できるか、という点が今後のカギを握りそうですね。
また是非お越し下さい\(^o^)/
例えば、第2条では「篤(あつ)く三宝(さんぼう)を敬え」として、仏教への信仰を説いています。尚、三宝とは仏・法理(ほうり)・僧侶(そうりょ)のことで、仏教の三つの宝物(ほうもつ)とされています。
また、第3条で「天皇の命令には必ず従いなさい」と天皇への忠誠を説くなど、儒教(じゅきょう)の道徳思想に基づく心がまえを示している条文もいくつか存在しており、中には第8条のように「役人は朝早く出仕して、遅くなってから退出しなさい」という細かいものまであります。
憲法十七条は、役人として政務をとる者に対して、和の尊重だけでなく、仏教への信仰や、天皇への忠誠など、様々な心がまえを説き、自覚をうながす内容となっています。
それは、国内での無益な争いを避(さ)けるために天皇や朝廷に忠誠を誓わせたり、役人が暴走しないように仏教や儒教の思想で朝廷に従わせたりするという、聖徳太子が蘇我氏などの豪族に対して巧妙(こうみょう)に仕掛けた作戦でした。
「蘇我氏の思うままにはさせない」という聖徳太子の執念が見え隠れしますね。



いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
さすらい なるほど、聖徳太子のうまさですね。
蘇我氏は改めて自分のもくろみが外れたと
思っていることでしょう。
聖徳太子の執念に勝てなかった。。。
歴史ですねえ。
応援♪
蘇我氏、身動きとれず
オバrev さすがですね。
憲法に天皇への忠誠や役人の心得を書いてしまえば、それに従わざるを得ないし、それを破れば憲法違反として捕らえることもできますね。
これじゃあ蘇我氏もどうすることもできませんね。
聖徳太子は、おそらく摂政になる前から練りに練っていたんじゃないかな?
ヒロキ さすがは聖徳太子ですね!!
役人の心構えというものを示すことで、
蘇我氏の動きも抑えようとしてたんですね♪
智里 曽我氏の思い通り出来なくさせるなんて、やっぱ聖徳太子だよね~(≧∇≦)b
この頃には大陸から儒教が伝わっていたんですね。
孔子も、日本の最初の憲法にかかわってると知ったらビックリするんじゃないかな。
法と冠位
tycoont 黒田裕樹さん、こんにちは

聖徳太子は「冠位十二階」で蘇我氏以外の
者が出世できるルートを作る一方、
憲法十七条では、蘇我氏の独走を法という縛りで
制限したんですね

「和の尊重」とは一見聞こえは良いですが、
裏を返せば、「蘇我氏だけで勝手に行うな、
他のものにも同意を得てから行え」
ということですからね

さすらいさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、蘇我氏の目論見を見事なまでに打ち砕いた聖徳太子の手腕は素晴らしいものがあると思います。政治家には「執念深さ」も必要なのかもしれませんね。
いつも有難うございます!
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 憲法に天皇への忠誠や役人の心得を書いてしまえば、それに従わざるを得ないし、それを破れば憲法違反として捕らえることもできますね。
> これじゃあ蘇我氏もどうすることもできませんね。
そうなんですよね。中国並みの律令国家をつくろうと思えば、憲法が絶対に必要、とでも蘇我氏をなだめすかして成立させて、いざフタを開けたら蘇我氏にとっては「トンデモナイ」やつだった…。でも逆らえない。ホンマにうまいなぁ、聖徳太子は(^_^)v
> 聖徳太子は、おそらく摂政になる前から練りに練っていたんじゃないかな?
天皇陛下を暗殺するような蘇我氏の横暴さには、皇族の一員として許せなかったとも考えられますから、機会があれば蘇我氏をギャフンといわせてやるぞと牙を研いでいた可能性は確かにありそうですね。
ヒロキさんへ
黒田裕樹 > 役人の心構えというものを示すことで、
> 蘇我氏の動きも抑えようとしてたんですね♪
仰るとおり、さすがは聖徳太子だと思います。
蘇我氏も(現実はどうあれ)立場上は一役人ですから、こんな憲法をつくられたら黙って従わざるを得ませんからね(^o^)丿
智里さんへ
黒田裕樹 > 曽我氏の思い通り出来なくさせるなんて、やっぱ聖徳太子だよね~(≧∇≦)b
そのとおりです。アンチ蘇我氏の智里さんにも喜んでいただける事実ですね。
> この頃には大陸から儒教が伝わっていたんですね。
> 孔子も、日本の最初の憲法にかかわってると知ったらビックリするんじゃないかな。
そうですよね。孔子の思想が海を越えて他の国にも及んで、現代にも生かされているのですから、孔子はやはり偉大ですね。
tycoontさんへ
黒田裕樹 > 憲法十七条では、蘇我氏の独走を法という縛りで
> 制限したんですね

当時は法治国家になることが一流国の証でもありますから、蘇我氏は当然憲法十七条に反対できない訳ですし、蘇我氏の立場を追い込んだ上で、憲法を認めざるを得ない方向へ持っていった聖徳太子の手腕をほめるべきですね。
> 「和の尊重」とは一見聞こえは良いですが、
> 裏を返せば、「蘇我氏だけで勝手に行うな、
> 他のものにも同意を得てから行え」
> ということですからね

私の申し上げたかったことを仰っていただいて有難うございます!
そのとおりでして、聖徳太子は「和の尊重」という昔からのしきたりを逆手に取ったんですね。鮮やかです(^o^)丿
聖徳太子はこのときまだ14歳の少年ながら戦闘に参加しましたが、戦いは蘇我氏にとって不利な状況が続きました。思い余った聖徳太子は、仏教の四天王に対して勝利を祈願し、「戦闘に勝てば四天王のためのお寺を必ずつくる」と誓いを立てました。
すると、味方の放った矢が物部守屋に命中して、大将を失った物部軍は総崩(そうくず)れとなって敗退しました。
それから6年後の593年、第33代の推古天皇の摂政となった聖徳太子は、約束どおり摂津(現在の大阪府)の地に四天王をまつる寺の造営を始めました。これが現在も大阪市天王寺区に残る四天王寺(してんのうじ)のルーツとされています。
尚、大阪の街で「梅田」(うめだ)「難波」(なんば)と並んで有名な「天王寺」(てんのうじ)は、四天王寺の略称(りゃくしょう)がそのまま地名となったものです。



いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
さすらい こんにちは。
歴史のルーツをたどるのは面白いですよね。
四天が一同に集まる寺の建立ですから凄いものです。
改めて聖徳太子の手腕に脱帽。
応援♪
さすらいさんへ
黒田裕樹 そうですね。
今から1400年以上も昔の出来事が記録されていて、四天王をまつる寺院のルーツが残されているのは素晴らしいと思います。
聖徳太子が凄いのは、まだ話がこれで終わらないことですね。
応援有難うございます!
ヒロキ 物部守屋と蘇我馬子の争いに聖徳太子が参戦していたんですか!?
言われてみれば、信仰してる聖徳太子からしてみれば反対派の物部氏は敵ですよね。
ヒロキさんへ
黒田裕樹 > 物部守屋と蘇我馬子の争いに聖徳太子が参戦していたんですか!?
そのとおりでして、太子がまだ14歳の少年時代の話です。若い頃の命懸けの経験が、その後の政策に何らかの影響を与えたかもしれませんね。
> 言われてみれば、信仰してる聖徳太子からしてみれば反対派の物部氏は敵ですよね。
仏教が禁止されれば、聖徳太子にとっては心の支えを失ったも同然でしょうから、やはり敵だったでしょうね。「和の尊重」も、信仰の自由があればこそかもしれません。
ぴーち >味方の放った矢が物部守屋に命中して、大将を失った物部軍は総崩(そうくず)れとなって敗退しました。
何故か、人の運命って
そんな馬鹿な・・と思うような事態で終息する場合が
ありますよね。さぞや、無念だった事でしょう。。(特に物部氏の味方ではありません)
それにしても、聖徳太子の「有言実行」型の性格は
留まる所を知らないようですね。
素晴らしいです^^
下のお返事の件。
黒田さんのような方に好かれた女性は幸せですねェ~^^
羨ましいです^^
それでは応援です!凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 何故か、人の運命って
> そんな馬鹿な・・と思うような事態で終息する場合が
> ありますよね。さぞや、無念だった事でしょう。。(特に物部氏の味方ではありません)
人間の力ではどうすることもできない偶然や必然が、この世にはあると考えます。だからこそ、与えられた天寿を全うしたいと常々思っております。
> それにしても、聖徳太子の「有言実行」型の性格は
> 留まる所を知らないようですね。
> 素晴らしいです^^
そうですね。しかし、まだ「内政」の話しかしておりません。近日中に始まる予定の「外交」で、聖徳太子の本当の「恐ろしいほどの凄さ」を実感していただきたいと思います。
> 下のお返事の件。
> 黒田さんのような方に好かれた女性は幸せですねェ~^^
> 羨ましいです^^
またしても過分なお言葉を頂戴しまして…(^^ゞ
誠に残念ながら、「好いた」ことはいくらでもありますが、「不器用」ゆえか面前で「好かれた」ことはほとんど記憶にありません。普段の「エンターテイメント」ぶりが足を引っ張っているのかもしれませんね。
毎度の応援、有難うございます!
お寺と歴史
オバrev 一昨年、職場の旅行で京都へ行って、ガイドタクシーに乗ってお寺を回ったことがありましたが、色んな所で歴史上の人物と出会いました。
歴史を見ていく上でお寺ってのは貴重ですね。四天王寺には聖徳太子の資料のようなものは何かあるんですか?
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 一昨年、職場の旅行で京都へ行って、ガイドタクシーに乗ってお寺を回ったことがありましたが、色んな所で歴史上の人物と出会いました。
京都にも聖徳太子と関係が深いとされるお寺がありますよ。帰化人出身の秦氏(はたし)が、聖徳太子から賜(たまわ)った仏像を安置するために建てたとされる広隆寺(こうりゅうじ)が、東映の映画村でも有名な太秦(うずまさ)にあります。
> 歴史を見ていく上でお寺ってのは貴重ですね。四天王寺には聖徳太子の資料のようなものは何かあるんですか?
残念ながら、度重なる火災もあって「聖徳太子に直接関係する資料」は残存していないようです。ただ、四天王寺の伽藍(がらん)配置は、当時の大陸の影響を強く受けております。
中でも607年に斑鳩(いかるが、現在の奈良県)の地に建てられた法隆寺(ほうりゅうじ)は、聖徳太子自身が建立(こんりゅう)したことで有名です。法隆寺は7世紀後半に一度火事で消失しましたがその後再建され、寺院の一部は世界最古の木造建築として残っており、寺自体も世界遺産に登録されています。
尚、法隆寺は建てられた地名から、別名を「斑鳩寺」(いかるがでら)といいます。ちなみに、JRの線路(=関西本線)によって(四)天王寺駅と法隆寺駅がつながっているのは面白い偶然ですね。両駅間は直通の快速で約21~24分で行けます。
また、聖徳太子は仏教を信仰するために、みずから高句麗(こうくり)の高僧(こうそう)であった恵慈(えじ)に仏教を学び、後には仏教の法典(ほうてん)の注釈書(ちゅうしゃくしょ)である三経義疏(さんぎょうぎしょ)を著(あらわ)しました。
このとき、聖徳太子が恵慈から学んだのは仏教だけではありませんでした。恵慈の出身国である高句麗などの朝鮮半島の情勢や、高句麗と敵対関係にあった中国の隋(ずい)の情報などを詳しく学んだのでした。
東アジアの国際情勢に関する理解を深めた聖徳太子は、その胸に「重大な決意」を秘めていました―。



いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
ヒロキ 恵慈と言う人物はなぜ日本に来たんでしょうか?
もしかして渡来人だったのですか?
>聖徳太子は、その胸に「重大な決意」を秘めていました
もしかして、遣隋使の派遣のことですか!?
- 聖徳太子の「重大な決意」・・・
気になりますね、なんでしょうか?
歴史がめっきりなんで、見当が・・・(^_^;)
明日の記事を楽しみにしておきます(*^_^*)
さすらい こんばんは。
聖徳太子の政策はどんどん進んでしますね。
「重大な決意」
総辞職会見や解散宣言
はたまた離婚会見なら
面白いんですがね(爆)
応援♪
えめる 記事とチョッと視点がずれますが、歴史的建造物である法隆寺。木の性質をとことん上手く利用して立てられているため、長持ちなんだそうですね。
ひと山まるごと買い取って、南の樹は南の位置に、北の樹は北にというように、生えているとおりに使うんだそうです。
樹の癖を、そのまま生かすって言うことらしいです。
もうその技術も継承者がほとんどいないそうです。
これも、歴史の一幕になるのでしょか。
ぴーち こんばんは~^^
今日は法隆寺の話題なんですね!
それと三経義疏というんですか。
初めてお名前は聞きました。
もしかして、法華経もこのうちの一つでしょうか・?
重大な決意。。
さて、なんでしょうか^^
明日を楽しみにしています!
私の記事にいただいたコメントのお返事は、
明日また、書かせてくださいね!
同心姿の黒田さん、きっとお似合いだと思いますよ~
私は、お姫様タイプよりも、アクティヴに女忍者などが良いですね~(笑
同心に追われて、逃げ惑っています(^0^
(冗談です^^)
それでは、応援凸
いつも脱線してしまい、恐縮です(><)
また、お邪魔します!
グローバリズム
tycoont 黒田裕樹さん、こんにちは

当時、仏教を普及させるという考えは、
世界の最先端の思想や文化を取り入れると
いうことなんですかね~

現代に例えるなら、「グローバリズム」・
「グローバルスタンダード」を取り入れるように・・

報道ギャング 斑鳩寺と飛鳥寺(?)っていうのを勉強したような気が……
2つのお寺にある像がややこしかったですw
何とか如来とか、何とか釈迦とか
……資料集を見直します!w
夢殿
sisi 私も昔は学生時代、
法隆寺夢殿いきましたよ。古き香りがすごいですね。
ブログ村投票しました。
ヒロキさんへ
黒田裕樹 > 恵慈と言う人物はなぜ日本に来たんでしょうか?
> もしかして渡来人だったのですか?
恵慈は高句麗の僧で、595年に来日し、615年には帰国しています。従って、我が国に渡来はしているものの、土着した帰化人ではなく、むしろ明治初期に西洋文化を学ぶために招かれた「お雇い外国人」に近いイメージがありますね。
余談ですが、最近の歴史教科書では「帰化人」のことを「渡来人」と書いているのが多いようですが、この表現だと、今回の恵慈のようなパターンにおける区別がつきにくくなって困りますよね。
> もしかして、遣隋使の派遣のことですか!?
さぁ(ニヤリ)?
13日の更新をお楽しみに!
名無し?さんへ
黒田裕樹 ご期待下さり、有難うございます。13日の更新を楽しみにお待ち下さい!\(^o^)/
隋の大国ぶりを知った聖徳太子は、朝鮮半島の高句麗(こうくり)の高僧であった恵慈(えじ)などから学んだ正確な国際情勢をもとに、隋との正式な国交を開く準備を始めました。
まずは隋に共同で対抗するために、高句麗や百済(くだら)と同盟を結びました。かつて任那(みまな)を滅ぼした新羅(しらぎ)とは険悪な関係が続いていましたが、聖徳太子はあえて同盟関係からはずしました(実はこれにも理由があるのですが…)。
事前の様々な準備を終えた聖徳太子は、満を持して607年に小野妹子(おののいもこ)を使者として、二度目の遣隋使を送りました。この頃、隋の皇帝は二代目の煬帝(ようだい)が務めていました。
「日本からの使者が来た」との知らせに煬帝は宮殿に現れると、手にした我が国からの国書を読み始めました。すると―。



いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
さすらい こんにちは。
隋との交流がさらに活発になるのですね。
我々日本鍼灸の歴史も少しづつ始まります。
それ以前にもあったようですが
隋に教えられたことも多く
奈良平安へと確立していく元になったようです。
「すると―。」?
続きを楽しみにしています。
応援♪
さすがの隋もどうにもできず?
オバrev 用意周到、準備万端、そして大胆にして、緻密な戦略をたて、相手がその道しか進めなくしてしまう。
さすがの大国隋の皇帝もどうしようもできなかったんでしょう。
おったんですねぇ、日本にもこういう政治家が・・・。
さすらいさんへ
黒田裕樹 > こんにちは。
> 隋との交流がさらに活発になるのですね。
> 我々日本鍼灸の歴史も少しづつ始まります。
> それ以前にもあったようですが
> 隋に教えられたことも多く
> 奈良平安へと確立していく元になったようです。
仰るとおり、隋との交流は我が国にとって何物にも替えがたい財産となりました。
しかし、文化交流だけが財産ではないんですよね…。
> 「すると―。」?
> 続きを楽しみにしています。
有難うございます(^o^)丿
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 用意周到、準備万端、そして大胆にして、緻密な戦略をたて、相手がその道しか進めなくしてしまう。
>
> さすがの大国隋の皇帝もどうしようもできなかったんでしょう。
まさに今後の私の講座の「予告編」となるお言葉ですね。有難うございます!
> おったんですねぇ、日本にもこういう政治家が・・・。
人材豊富は我が国の昔からの「お家芸」なんですよね。現代でも、決して人材不足ということはないと思いますが…。
ヒロキ 「・・・日出づるところの天子・・・」で有名な文ですよね!
今思えばよくあんな文章を送れたなって思います。
高句麗や百済が隋に対抗していたからこそ書けた文章だったんですよね^^;
さすがは聖徳太子だったと思いますね♪
ヒロキさんへ
黒田裕樹 > 「・・・日出づるところの天子・・・」で有名な文ですよね!
> 今思えばよくあんな文章を送れたなって思います。
> 高句麗や百済が隋に対抗していたからこそ書けた文章だったんですよね^^;
> さすがは聖徳太子だったと思いますね♪
仰るとおりです。そのあたりの流れをこれから詳しく紹介しますので、どうぞご覧になって下さいね(^o^)丿
「何だ、この失礼な物言いは!」
あまりの怒りに隋の外交官たちが震え上がる一方で、我が国からの使者である小野妹子(おののいもこ)は涼しい顔をしていました。
「こんな無礼な蕃夷(ばんい=野蛮という意味)の書は、今後は自分に見せるな!」
煬帝の怒りは収まらず、周囲にこう言い放つと、そのまま立ち去らんとする勢いでした。さて、煬帝をここまで激怒させた国書の内容とは、どのようなものだったのでしょうか。
「日出(ひい)ずる処(ところ)の天子(てんし)、書(しょ)を日没(ひぼっ)する処の天子に致(いた)す。恙無きや(つつがなきや=お元気ですか、という意味)」。
皆さんは、煬帝を怒らせたのは国書のどの部分だと思いますか?



いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
えめる 日本が日の出、自国を日の沈む国との記述、
それを国の勢いに例えて考えたからでしょうか?
親善大使
tycoont 黒田裕樹さん、こんにちは

もちろん
「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子致す。」の部分

大国中国にこんな無礼な言い方すれば、怒るでしょう

しかも、「恙無きや」ですからね

聖徳太子も小野妹子を遣る際、相当な賭けをしたんだと思います

しかし、聖徳太子のすごいところは、朝鮮を通さず直接隋と交流し
、表向き「文化交流」(親善大使)という位置づけで行ったことですかね

煬帝も「正式な外交」ならタダじゃ置かないが、「文化交流」なら
許してやるか~、ってな感じですかね

えめるさんへ
黒田裕樹 > 日本が日の出、自国を日の沈む国との記述、
> それを国の勢いに例えて考えたからでしょうか?
仰ることも良く分かりますが、果たして…。
明日の更新をお待ち下さい。
tycoontさんへ
黒田裕樹 > もちろん
> 「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子致す。」の部分

> 大国中国にこんな無礼な言い方すれば、怒るでしょう

> しかも、「恙無きや」ですからね

「恙無きや」は相当くだけた表現ですからね。でも一番怒らせたのは…。
> 聖徳太子も小野妹子を遣る際、相当な賭けをしたんだと思います

そうですね。これだけの大仕事で自分の代わりを務められる人材はそういません。冠位十二階の制度が生かされてますね。
> しかし、聖徳太子のすごいところは、朝鮮を通さず直接隋と交流し
> 、表向き「文化交流」(親善大使)という位置づけで行ったことですかね

> 煬帝も「正式な外交」ならタダじゃ置かないが、「文化交流」なら
> 許してやるか~、ってな感じですかね

後日書きますが、文化交流は確かに行われています。ただ、それでもカバーしきれないほどの怒りを買った「ある言葉」があったんですよね…。
ケンシロウ こんにちは。
ご無沙汰しております ペコリ(o_ _)o))
講義まであと2週間ですね。
延期になったのでしっかり準備は整っていると思います。
おいらは行けませんが頑張って下さいね。
ケンシロウさんへ
黒田裕樹 講座への励ましのお言葉有難うございます。
あと2週間ですが、しっかりと準備をして頑張りたいと思います!
ぴーち こんばんは!
皆さん、素晴らしい回答ばかりで
私の出る幕はありませんが。(汗
あくまで私の単純な推測ですが、
「日出ずる処の天子」と自分を煬帝よりも
上であるという表現をあえてしたことに
怒りを感じたのかも知れないかなと思いますが
どうでしょうかね・・・^^
それと前回のお返事に私の記事リンクをわざわざ貼ってくださいまして、恐縮しております,・・というか、蛇足な事ばかり書いてしまいすみません^^;
そう云いつつ、私も言葉のキャッチボールは好きですので、また、ご面倒でもたまには遊びにお付き合いくだされば、ありがたく存じます^^
それでは、応援です凸
およよのよ 朝鮮討伐でこっちに手が回らないのを良い事に挑発的な文章を送るとは卑怯ですね(笑)
でもいつまでも中国にへこへこ頭を下げているのはいけないと聖徳太子は判断したのかもしれませんね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > あくまで私の単純な推測ですが、
> 「日出ずる処の天子」と自分を煬帝よりも
> 上であるという表現をあえてしたことに
> 怒りを感じたのかも知れないかなと思いますが
> どうでしょうかね・・・^^
「日出ずる天子」と「日没する天子」の違いですね。目の付け所は悪くないんですが…。
明日の更新をお待ち下さいm(_ _)m
> それと前回のお返事に私の記事リンクをわざわざ貼ってくださいまして、恐縮しております,・・というか、蛇足な事ばかり書いてしまいすみません^^;
いえいえ、私が長々とコメするよりもその方が分かりやすいかな、と思っただけですので。
「勝手に引用していいのかな」と考えていたので、ぴーちさんのお言葉にほっとしました。
> そう云いつつ、私も言葉のキャッチボールは好きですので、また、ご面倒でもたまには遊びにお付き合いくだされば、ありがたく存じます^^
こちらこそ宜しくお願いします!\(^o^)/
およよのよさんへ
黒田裕樹 > 朝鮮討伐でこっちに手が回らないのを良い事に挑発的な文章を送るとは卑怯ですね(笑)
確かに卑怯かも(笑)。でも、綺麗事だけでは外交が務まらないのも事実ですからね。
> でもいつまでも中国にへこへこ頭を下げているのはいけないと聖徳太子は判断したのかもしれませんね。
仰るとおりだと思います。だからこその「卑怯」なんですよね。
「日出(ひい)ずる処(ところ)の天子(てんし)、書(しょ)を日没(ひぼっ)する処の天子に致(いた)す。恙無きや(つつがなきや=お元気ですか、という意味)」。
一見すると、「日出ずる」と「日没する」に問題があるような感じがしますね。「日の出の勢い」に対して「日が没するように滅び行く」とは何事か、という意味に取れなくもありません。
しかし、この場合の「日の出」と「日没」は、単なる方角として使われただけです。すなわち「日の出」が東、「日没」が西という意味であり、煬帝が激怒した理由は別にあります。
それは「天子」という言葉です。天子とは中国では皇帝、我が国では天皇を意味する君主の称号ですが、この言葉を隋に対して格下の(と思っていた)我が国が使ってくるとは、予想もしていなかったのです。
なぜなら、中国の考えでは「皇帝」というのは世界で一人しか存在してはいけないことになっているからなのです。



お蔭様でカウンターが3000を突破しました! いつも有難うございます!
トラックバック(0) |
さすらい こんばんは。
古今東西、「わしが一番じゃあ」という
権力者は多いですよね。
「天子」のこだわりより
「天使」の優しさが欲しいものです(笑)
応援♪
海豚 へぇ、「天子」の意味やっと知りました・・・(そこかよww
実は今・・・。
三国志読んでるんですけど・・・
なかなかわからない言葉ばっかりで・・・。
ヒロキ 中国を「中華」、その周辺の国はそれぞれ「東夷」「北狄」「西戎」「南蛮」と呼ぶんですよねー。
「東夷」は日本の事を表してるから中国と日本の立場を同じ「天子」とされたのが気に食わなかったそうで・・・。
本来なら「中国」対「日本」になりそうな感じですが、当時の情勢だと日本にかまってられないのが本音だったんですね!
聖徳太子はこのことも「読んで」いたんですかね??
さすらいさんへ
黒田裕樹 > 古今東西、「わしが一番じゃあ」という
> 権力者は多いですよね。
権力者のほとんどは自分の地位にしがみつこうとしますからね。
実力のない人間は尚更、ということで(笑)。
聖徳太子のように実力も兼ね備えた人物は別ですが。
> 「天子」のこだわりより
> 「天使」の優しさが欲しいものです(笑)
座布団1枚(失礼)!
今日もさえていらっしゃいますね(^^♪
海豚さんへ
黒田裕樹 > へぇ、「天子」の意味やっと知りました・・・(そこかよww
そうですか…。大事なことなのに学校では教えてないんですね。
だから最近の歴史教育は(ry
> 実は今・・・。
> 三国志読んでるんですけど・・・
> なかなかわからない言葉ばっかりで・・・。
おっ、三国志デビューですか(^o^)丿
難しい言葉を調べて理解できれば、さらに知識が増えますよ。
頑張りましょう!
もし分からないことがあれば、講座と無関係でもコメしてOKですよ(^^♪
ヒロキさんへ
黒田裕樹 > 中国を「中華」、その周辺の国はそれぞれ「東夷」「北狄」「西戎」「南蛮」と呼ぶんですよねー。
> 「東夷」は日本の事を表してるから中国と日本の立場を同じ「天子」とされたのが気に食わなかったそうで・・・。
そのとおりです。「世界の中心は自分ひとり。それを他人が名乗るのはもってのほか」という怒りの感情ですね。
> 本来なら「中国」対「日本」になりそうな感じですが、当時の情勢だと日本にかまってられないのが本音だったんですね!
> 聖徳太子はこのことも「読んで」いたんですかね??
相変わらず鋭いですね(^^ゞ
果たしてヒロキさんの推察どおりか……これから先もお楽しみに!
tycoont 黒田裕樹さん、こんにちは

なるほど


あと、3000アクセス、おめでとうございます

これからも応援してます

えめる おお、そうであったか。
全く、わがままなお人だにゃ……。
bunyan こんばんは☆
天子というのは水滸伝にも出てくるくらいだから、煬帝が激怒したのもうなずけます。
でも皇帝は世界に一人だけというのは少し違うような気がします。
ヨーロッパにも皇帝は存在してたのでは?
tycoontさんへ
黒田裕樹 > なるほど


そのとおりです。中国における「天子=皇帝」の定義については、次回以降の講座で詳しく説明しますね。
> あと、3000アクセス、おめでとうございます

> これからも応援してます

有難うございます!(^o^)丿
今から2200年以上前に中国大陸を史上初めて統一した秦(しん)の王(おう)であった政(せい)は、各地の王を支配する唯一(ゆいいつ)の存在として「皇帝」という称号の使用を始め、自らは最初の皇帝ということで「始皇帝」(しこうてい)と名乗りました。
これが慣例となって、大陸の支配者が変わるたびに自らを「皇帝」と称し、各地の有力者を「王」に任命するという構図が完成しました。そして、この構図は大陸周辺の諸外国にも「強制」させることになったのです。
例えば、57年に奴国(なこく)が後漢に使者を送った際には「漢委奴国王」(かんのわのなこくおう)という金印を授かっていますし、邪馬台国(やまたいこく)の女王である卑弥呼(ひみこ)は、魏(ぎ)から「親魏倭王」(しんぎわおう)の称号を授けられています。5世紀の「倭の五王」も、中国の歴史書には「倭王」と書かれていますね。
これは、我が国の支配者が中国の権威に勝てずに、その臣下(しんか)となって許してもらうようにお願いするという、いわゆる朝貢外交(ちょうこうがいこう)を意味しました。独立国である我が国、そして朝廷にとっては、こんな屈辱的(くつじょくてき)な話はありません。
聖徳太子は、中国大陸の支配者が替わったのを機会に、これまでとは違う態度で、すなわち「『皇帝→天皇』と名乗れるのは我が国も同じだ」という強い意思で、対等な関係の外交に臨(のぞ)む姿勢を「天子」という言葉に示したのでした。



いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
さすらい こんにちは。
まだまだ人間社会は未熟のようで
世界の権力者は
それぞれ「お山の大将」だったんですねえ。
あ、今も未熟ですがね(笑)
応援♪
管理人のみ閲覧できます
-
さすらいさんへ
黒田裕樹 > まだまだ人間社会は未熟のようで
> 世界の権力者は
> それぞれ「お山の大将」だったんですねえ。
> あ、今も未熟ですがね(笑)
仰るとおりでして、なかなか「成熟した権力者」というのにはお目にかかれませんね…。
期待する方が無理なのでしょうか?
いつも有難うございます!
ぴーち こんばんは!まずは、記事総数100回目
記念。おめでとうございます

以前にも書かせていただきましたが、黒田さんの記事は
相手の目線に立った分かりやすい解説で
本当に助かります。
これからも、応援させてくださいね^^
昨日、宮崎康平という島原出身の古代研究者の方の映画を鑑賞しました。そこで卑弥呼の話が登場しまして、卑弥呼の名前の由来は干潟の女王という言う事をはじめて知りました。彼は九州に卑弥呼の墓があると主張していましたが、最近、奈良の方のお墓の新説が有力視されているようですね。これは決定的な説なんでしょうか・・。
あ、すみません、話がつい脱線してしまいまして^^;
天子の意味、よく理解出来ました!
ありがとうございます^^
では、また、お邪魔しますね~
凸済みっ♪
ヒロキ 100回目おめでとうございます♪
確かに朝貢外交っていうと屈辱的ですが、貿易的にはものすごくお得ですよね(*^_^*)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > こんばんは!まずは、記事総数100回目
> 記念。おめでとうございます

有難うございます!(^o^)丿
> 以前にも書かせていただきましたが、黒田さんの記事は
> 相手の目線に立った分かりやすい解説で
> 本当に助かります。
> これからも、応援させてくださいね^^
過分のお言葉、恐縮です。これからも分かりやすい講座を心がけたいと思います。
> 昨日、宮崎康平という島原出身の古代研究者の方の映画を鑑賞しました。そこで卑弥呼の話が登場しまして、卑弥呼の名前の由来は干潟の女王という言う事をはじめて知りました。彼は九州に卑弥呼の墓があると主張していましたが、最近、奈良の方のお墓の新説が有力視されているようですね。これは決定的な説なんでしょうか・・。
古代は決定的な根拠というのがなかなか存在しませんから、数々の説があります。卑弥呼については、箸墓古墳がいつ造られたかについての新説が出ましたが、まだ決定的とはいえないと思います。ちなみに、私は邪馬台国=大和説を考えております。
> あ、すみません、話がつい脱線してしまいまして^^;
> 天子の意味、よく理解出来ました!
> ありがとうございます^^
いえいえ、どういたしまして。
また宜しくお願いしますm(_ _)m
おめでとうございます
オバrev 歴史講座100回目 おめでとうございます。
また、1つ1つの記事もすばらしいです。
とても分かりやすくて面白いです。
秦の始皇帝、漢委奴国王の意味よ~く分かりました。こういうのって、人に言いたくなる知識ですね(^^;)
しかし、聖徳太子に本当に勝算があったのか、やけくそだったのか、その辺はどうだったのでしょうか?
ヒロキさんへ
黒田裕樹 > 100回目おめでとうございます♪
有難うございます!(^_^)v
> 確かに朝貢外交っていうと屈辱的ですが、貿易的にはものすごくお得ですよね(*^_^*)
そうなんですよね。朝貢外交は屈辱的な反面、「進んだ国が遅れた国に手ほどきをする」立場になりますので、朝貢する側はいわば「もらいっぱなし」で、ほとんど何もしなくても良いんです。
しかし、中世の一時期を除いて我が国は、いかにお得であろうと独立国のプライドをかけて、あえて対等の関係をめざしています。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 歴史講座100回目 おめでとうございます。
> また、1つ1つの記事もすばらしいです。
> とても分かりやすくて面白いです。
有難うございます。いただいた一つ一つの言葉が、とても励みになります!(^o^)丿
> 秦の始皇帝、漢委奴国王の意味よ~く分かりました。こういうのって、人に言いたくなる知識ですね(^^;)
そうですね。宜しければ、どんどん仰って下さい!(^^♪
> しかし、聖徳太子に本当に勝算があったのか、やけくそだったのか、その辺はどうだったのでしょうか?
鋭い質問ですね(笑)。数日中には答えが出ると思いますので、今後の更新にご期待下さい!
祝100回
tycoont 黒田裕樹さん、こんにちは

100回おめでとうございます。色付きの文字

歴史を観る視点、文章の読みやすさどれをとっても
通史を振り返るのにとても勉強になります

これからも、頑張ってください

応援です
隋は大陸統一後に、朝鮮半島にある隣国の高句麗と激しく戦いました。一度は隋の猛攻を跳ね返した高句麗でしたが、いつまた隋が攻め寄せてくるか分かりません。
そこで、高句麗は隋に勝ったにもかかわらず、その後はひたすら低姿勢を貫き、屈辱的な言葉を並べて許してもらおうとする朝貢外交を展開しました。
高句麗でさえこの態度だというのに、対等な関係を求めるという、ひとつ間違えれば我が国に対して隋が攻め寄せる口実を与えかねない危険な国書を送りつけた聖徳太子には、果たして勝算があったのでしょうか。それとも、あまりにも無謀な作戦だったのでしょうか。
結論を先に言えば、当時の隋には、我が国に攻め寄せる余裕が実は全くといっていいほどなかったのです。



いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!今日は早目にお邪魔させていただきました^^
いつもありがとうございます!
聖徳太子の事ですから、やはり勝算する見込みが
十分にあったからこその作戦だったのではないでしょうか。
それと、勝手な推測ですが、我が国は海に囲まれた国ですので、その辺りで隋も攻め入るのには難しかったのでしょうかね?それとも、隋は全く違う方にどこかの驚異を感じていたのかしら。。
余裕が無かったというのは、財政面の事か、それとも・・?
それでは、応援です凸
ヒロキ 聖徳太子は「隋は攻めてこないだろう」って考えていたんですかね。
情報がしっかりしていないとこんな危険な賭けは出来ないですよねー。
隋は高句麗に一度負けているから、高句麗が朝貢外交をしているからといって油断が出来なかったのですかね(>_<)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 聖徳太子の事ですから、やはり勝算する見込みが
> 十分にあったからこその作戦だったのではないでしょうか。
結論としては仰るとおりです。その内容については明日をお楽しみに(^^♪
> それと、勝手な推測ですが、、その辺りで隋も攻め入るのには難しかったのでしょうかね?それとも、隋は全く違う方にどこかの驚異を感じていたのかしら。。
> 余裕が無かったというのは、財政面の事か、それとも・・?
「我が国は海に囲まれた国ですので」。鋭いですね。4月の大阪での講座でも少し紹介しましたね。
余裕がないのは、財政面ももちろんですが、それよりも…。
繰り返しになりますが、明日の更新までしばらくお待ち下さいm(_ _)m
いつも有難うございます!\(^o^)/
ヒロキさんへ
黒田裕樹 > 聖徳太子は「隋は攻めてこないだろう」って考えていたんですかね。
> 情報がしっかりしていないとこんな危険な賭けは出来ないですよねー。
今も昔も情報は大切です。聖徳太子の真髄もそこにありますよ(^^♪
> 隋は高句麗に一度負けているから、高句麗が朝貢外交をしているからといって油断が出来なかったのですかね(>_<)
高句麗と我が国とでは陸続きかそうでないかという大きな違いがあります。でも、それ以上に大事なことは「相手になめられない」ことなのです。
内政の混乱か
オバrev なるほど~、そういう情報を聖徳太子は掴んでいたんですね。
その情報は、内乱というか内政が混乱していた?
オバrevさんへ
黒田裕樹 > その情報は、内乱というか内政が混乱していた?
相変わらず核心を突くご指摘ですね(^^ゞ
内政はもちろん、もうひとつの方は…?
今の段階ではっきりいえることは、本人の能力は別にして、聖徳太子と煬帝とでは為政者としてどれだけの違いがあるか、ということに尽きると思います。
さすらい こんばんは。
まあ、暴君は栄えず、ということですねえ。
次回、「その時歴史が動いた」ですね(笑)
楽しみにしています。
応援♪
さすらいさんへ
黒田裕樹 コメント&応援有難うございます(^^♪
> まあ、暴君は栄えず、ということですねえ。
煬帝のことですね。実際に隋は彼の代で…おっと、話が先走りすぎました(笑)。
> 次回、「その時歴史が動いた」ですね(笑)
> 楽しみにしています。
ありますね、そういう番組が。
スケールはまったく違いますが、目指していいかもしれません(!?)
コメント消えてしまいました
h.hamauzu ご無沙汰しています。またも書いたコメント消してしまいました。
ここ数日分一気に読みましたが、今日のを読んでやはり一言!
「続きが気になって仕方がないじゃないか~」w
あ、こちらもリンクはらせて頂きます。
よろしくお願いします
h.hamauzuさんへ
黒田裕樹 > ご無沙汰しています。またも書いたコメント消してしまいました。
お久しぶりです。ハプニングにもかかわらず、コメントして下さりうれしく思います。
> ここ数日分一気に読みましたが、今日のを読んでやはり一言!
> 「続きが気になって仕方がないじゃないか~」w
「通史」というだけあって「続き物」ですので(笑)。
冗談はともかく、またお時間ができましたら、是非お越し下さい(^^♪
> あ、こちらもリンクはらせて頂きます。
> よろしくお願いします
ご快諾有難うございます。
こちらこそ宜しくお願い致しますm(_ _)m
さらに、我が国が島国であるために、攻めようとすれば多数の大きな船が必要になるなど、多額の出費がかさむことも十分予測できました。
そんな状況の中で、無理をして我が国へ攻め込もうとしても、もし失敗すれば国家の存亡にかかわるダメージを与えかねないことが、煬帝をためらわせました。
それに加えて、我が国が高句麗や百済と同盟を結んでいることが、煬帝には大きな足かせになっていました。隋が我が国を攻めようとすれば、同盟国である高句麗や百済がまず黙っていません。
それどころか、逆に三国が連合して隋に攻め寄せる可能性も考えられますし、そうなればいかに大国隋といえども、苦しい戦いになることは目に見えていました。



いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
ヒロキ なるほど!
日本を攻めようにも、島国だから軍を送るにもリスクが高いから簡単には攻めることが出来ないんですね!
いくら隋とはいえど、3つの国が手を組んで攻められたらひとたまりもないですね(*^_^*)
ヒロキさんへ
黒田裕樹 > 日本を攻めようにも、島国だから軍を送るにもリスクが高いから簡単には攻めることが出来ないんですね!
そうなんです。6~7世紀の頃は、島国というだけでかなり恵まれていたんですよね。
> いくら隋とはいえど、3つの国が手を組んで攻められたらひとたまりもないですね(*^_^*)
どんな強敵でも三人がかりなら互角かそれ以上といわれていますね。例えば剣術とか…。
ぴーち こんばんは!
やはり日本は周囲が海に囲まれているので、
その点、攻め込むのには困難を要するわけですね。
それに、丁度、高句麗と百済と同盟
を組んでいるので、将棋やオセロのように
挟まれて、四面楚歌状態になるわけですね。
応援凸
また、お邪魔させてくださいね!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > やはり日本は周囲が海に囲まれているので、
> その点、攻め込むのには困難を要するわけですね。
そのとおりです。まさか泳いで渡るわけにもいきませんからね。
船を用意するだけで莫大な費用がかかってしまいますから、もし失敗すれば…ですね。
> それに、丁度、高句麗と百済と同盟
> を組んでいるので、将棋やオセロのように
> 挟まれて、四面楚歌状態になるわけですね。
「将棋」や「オセロ」は思いつきませんでした(笑)。
仰るとおり、周りを囲まれてしまっては、まさに「四面楚歌」状態ですね。
いつも有難うございます!
島国は温室?
オバrev でた~!島国防御最強伝説(^^)/?
島国のおかげか、第二次世界大戦直後を除き、日本は外国に支配されることがなかったですよね・・・でもひょっとして今、アメリカに支配されているような気もするけど?
こう見ると、常に他国から攻められる危険性のある中国大陸や朝鮮半島に比べて、日本は温室みたいなもんですね。
これは、メリット、デメリット両方あると思います。
けん爺ちゃん こんばんは(^ワ^)
夜勤明けで変な時間ですが、遊びに来ました☆
倭は、高句麗とも同盟を結んでたんですね!
広開土王のイメージで、対立しているとばっかり…
勉強になりました。
当時の北東アジアの政治情勢上、隋という大国に
対する備えとして、中小諸国連合的な動きがあったと
いう事ですか?
海は、ありがたい防壁ですね(-人-)
オバrevさんへ
黒田裕樹 > でた~!島国防御最強伝説(^^)/?
そうです(笑)。今回はこの伝説(?)についても取り上げております。
> 島国のおかげか、第二次世界大戦直後を除き、日本は外国に支配されることがなかったですよね・・・でもひょっとして今、アメリカに支配されているような気もするけど?
これだけ世の中が複雑になると、何を以って「支配されている」のか、判断の難しいところですね。
> こう見ると、常に他国から攻められる危険性のある中国大陸や朝鮮半島に比べて、日本は温室みたいなもんですね。
> これは、メリット、デメリット両方あると思います。
私もそう思います。
以前に江戸時代まで特別講座で取り上げたように、この問題は非常に幅が広いです。仰ったメリット・デメリットについてお答えできるか分かりませんが、27日の講座でも一部取り上げることになると思います。
けん爺ちゃんさんへ
黒田裕樹 > こんばんは(^ワ^)
> 夜勤明けで変な時間ですが、遊びに来ました☆
いえいえ、何時でも歓迎しますよ。当方がコメントするのが遅くなってしまった場合は申し訳ないですが…。
> 倭は、高句麗とも同盟を結んでたんですね!
> 広開土王のイメージで、対立しているとばっかり…
> 勉強になりました。
6世紀頃から我が国と高句麗は急接近します。その背景のひとつに「隋による統一」があるわけです。
> 当時の北東アジアの政治情勢上、隋という大国に
> 対する備えとして、中小諸国連合的な動きがあったと
> いう事ですか?
まさにそのとおりです。人間の世界と同じですね。
> 海は、ありがたい防壁ですね(-人-)
この当時はまだまだメリットの方が大きかったですからね。
ひるがえって現代は…。
だとすれば、隋は我が国からの国書を黙って受け取るしか方法がありませんが、その行為は我が国が隋と対等外交を結ぶことを事実上認めることを意味しました。
聖徳太子は、遣隋使を送る以前から朝鮮半島をめぐる情勢や、隋の現状などを徹底的に調査し続けたことで、東アジアの正確な国際情勢をつかんでいました。
その結果、隋が我が国を攻める可能性がゼロに等しいことを見越した上で、対等外交を一方的に宣言した国書を隋に送りつけたのです。いうなれば聖徳太子の完全な作戦勝ちでした。
煬帝も愚かではありませんから、聖徳太子の作戦が理解できて、自分に対等外交を認める選択しか残されていないことが分かったからこそ、より以上に激怒したのかもしれませんね。



いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
のらねこみゅー 授業では表面的なことしか習っていなかったので・・・・・
いろんな思惑があったのですね~勉強になります^v^
のらねこみゅーさんへ
黒田裕樹 教科書は紙面や時間にどうしても限りがある以上仕方ないんですが、本当の意味で理解するのには向いていないんですよね。
まぁ、受験重視の傾向からすればどうしようもないのかもしれませんが…。
この講座では、今回のような普段は取り上げられないような興味ある話については、特に重視していきたいと考えておりますので、今後とも宜しくお願いします。
会心の勝利
オバrev すばらしい!まさに聖徳太子、会心の勝利ですね(^^)/
ナポレオンというトランプゲームがありますが、苦しい手札ながらも、すべて自分の思い通り、作戦通りに進んで、見事に勝利したときの気分?
煬帝も、怒り心頭だったけど、小野妹子はそのまま帰すしかなかったんでしょうね。
ヒロキ 聖徳太子の完全勝利ですね!
ここまで上手くいくと気持ちが良さそうですね(*^_^*)
この時代の情報収集能力の高さはすごいんですね^^;
ぴーち こんばんは!
そうだったんですか。
やはり地味な聞き込み調査や、時には
長時間の張り込み。雨の中でもずぶ濡れになりながら、
アンパンをかじり牛乳を飲んで、ひたすら相手の動きを監視する姿勢・・・?!
という地道な苦労がやがて、実を結ぶ時が来るんですね!作戦はやはり根気よく練るものなんですね~^^
それでは、応援凸
また、お邪魔します^^
オバrevさんへ
黒田裕樹 > すばらしい!まさに聖徳太子、会心の勝利ですね(^^)/
そのとおりです。煬帝が国書を受け取ったときが、聖徳太子がまさに我が国の歴史を変えた瞬間でもありました。
> ナポレオンというトランプゲームがありますが、苦しい手札ながらも、すべて自分の思い通り、作戦通りに進んで、見事に勝利したときの気分?
手札が苦しいだけでなく、副官が「一人相撲」で勝利したような感じでしょうか?(笑)
> 煬帝も、怒り心頭だったけど、小野妹子はそのまま帰すしかなかったんでしょうね。
外国からの使者に危害を加えることはそのまま宣戦布告になりますからね。煬帝にとっては悔しくても無傷で返すしかない訳です。
ヒロキさんへ
黒田裕樹 > 聖徳太子の完全勝利ですね!
> ここまで上手くいくと気持ちが良さそうですね(*^_^*)
聖徳太子はもちろん、現場にいた「男性の」小野妹子さんも最高の気分だったことでしょう(笑)。
> この時代の情報収集能力の高さはすごいんですね^^;
情報量の多寡がそのまま外交につながりますからね。現代ではどうなんでしょうかねぇ…。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > やはり地味な聞き込み調査や、時には
> 長時間の張り込み。雨の中でもずぶ濡れになりながら、
> アンパンをかじり牛乳を飲んで、ひたすら相手の動きを監視する姿勢・・・?!
> という地道な苦労がやがて、実を結ぶ時が来るんですね!作戦はやはり根気よく練るものなんですね~^^
具体的な「地道な努力」ですね(笑)。
まさに仰るとおりです。
今日も応援有難うございます!
さすらい こんばんは。
遅くなりました。
煬帝もまた歴史を読み切れなかったのでしょうか。
過去の皇帝政治から学びとれれば
もっとうまく自国をまとめる方法があったのでしょうが
そこをうまく聖徳太子が突いたなんて
我が国の方が「その時歴史が動いた」だったんですね。
応援です♪
えめる 外交手腕に長けていた人物。
聖徳太子のイメージが、私の中で新しくなりました。
有り難うございます。
外交官が国書を紛失するという信じられないミスに、朝廷は大あわてとなりましたが、本来なら死罪になってもおかしくなかった小野妹子は、結局は軽い罪に問われたのみで、すぐに許されました。
これには、隋からの返書の内容があまりにも我が国にとって厳しく(例えば我が国を臣下扱いにするなど)、とても見せられるものではなかったゆえに「失くした」ことにしたからだという説があります。聖徳太子や推古天皇が小野妹子の罪を軽くしたのも、妹子の苦悩を察したからかもしれませんね。
さて、煬帝からの返書とは別に、裴世清が我が国からの歓待を受けた際に送ったとされる国書が「日本書紀」に遺(のこ)されています。
その内容は、従来の中国の諸外国に対する態度とは全く異なるものでした。



いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
オバrev う~ん、小野妹子もなかなかやり手じゃ~!
まあ、もし妹子が脳天気なB型・・・私と同じ(T_T)・・・だったとしても、さすがに不注意でなくすことはないです。
実際に何が書いてあったかは、煬帝と妹子のみぞ知るですか。
推古天皇も聖徳太子も、まさに以心伝心というか、阿吽の呼吸で伝わっていたんでしょうね。美しい話です。
ケンシロウ こんにちは。
手紙紛失の件は以前にお聞きしたのでおkです。
ちと先走りすぎて申し訳なかったです。
いよいよ1週間後ですね。
頑張って下さいな。おいらは引越し準備を頑張ります。
さすらい こんにちは。
私も小野妹子が「失くしたことにしちゃえ」とした説
だと思います(笑)
各国文書の内容はそれぞれ異なっていたでしょうね。
報道の真実なんてなかったでしょうし(笑)
後の人々(我々)がおもしろおかしくしているから
色々な説があって興味あるものです。
次回の講義が楽しみです。
応援♪
およよのよ 有名な話ですね。
自分も妹子が嘘をついた説に賛成です。
って言うか処分軽かったんですね!
ずいぶん前法隆寺の記事を書いた時に妹子は朝鮮半島で手紙無くして官位落とされた的な話をしたんですけどあれ間違いだったんでしょうか。あわわ、どうしよう。よく調べてみます。
こみー 小野妹子は、紛失しちゃったんですね(^_^;)
初めて聞きました。。。
大変なことを・・・
でも、死罪が軽い罪になる程すごい内容だったんでしょうか・・・
管理人のみ閲覧できます
-
オバrevさんへ
黒田裕樹 > う~ん、小野妹子もなかなかやり手じゃ~!
> まあ、もし妹子が脳天気なB型・・・私と同じ(T_T)・・・だったとしても、さすがに不注意でなくすことはないです。
聖徳太子の代役を務められるほどの逸材である妹子が「不注意」なんて、考えられませんからね。
> 推古天皇も聖徳太子も、まさに以心伝心というか、阿吽の呼吸で伝わっていたんでしょうね。美しい話です。
推古天皇も聖徳太子もこういう結果を予測していて「見せられない国書なら失くせ」と事前に言ったのか、あるいは小野妹子のとっさの行動の「真意」をすぐに察したか…。いずれにせよ見事な連係プレーですね(^o^)丿
ケンシロウさんへ
黒田裕樹 > 手紙紛失の件は以前にお聞きしたのでおkです。
> ちと先走りすぎて申し訳なかったです。
いえいえ、むしろ「先見の明」をお持ちでいらっしゃると思いますよ。
> いよいよ1週間後ですね。
> 頑張って下さいな。おいらは引越し準備を頑張ります。
有難うございます。お互い頑張りましょう!(^^♪
さすらいさんへ
黒田裕樹 > 各国文書の内容はそれぞれ異なっていたでしょうね。
> 報道の真実なんてなかったでしょうし(笑)
当時はマスコミなんて存在しませんからね(笑)。
> 後の人々(我々)がおもしろおかしくしているから
> 色々な説があって興味あるものです。
そうですね。
明日の「もうひとつの国書」も評価が分かれるところだと思います。
> 次回の講義が楽しみです。
> 応援♪
有難うございます!\(^o^)/
およよのよさんへ
黒田裕樹 > って言うか処分軽かったんですね!
> ずいぶん前法隆寺の記事を書いた時に妹子は朝鮮半島で手紙無くして官位落とされた的な話をしたんですけどあれ間違いだったんでしょうか。あわわ、どうしよう。よく調べてみます。
当初は流刑だったんですが、推古天皇が気を利かせてすぐに都に戻しているんです。本来なら重罪のところを放免したわけですから、「軽い刑罰」という表現にしました。
小野妹子はこの後大出世している訳ですから、ある意味「すべては打ち合わせ」の出来事だったのかもしれませんね。
文章はさらに続きます。
「皇(=天皇)は海の彼方(かなた)にいながらも良く人民を治め、国内は安楽で、深い至誠(しせい=この上なく誠実なこと)の心が見受けられる」
朝貢外交にありがちな高圧的な文言(もんごん)が見られないばかりか、丁寧(ていねい)な文面で、我が国をほめる内容にもなっています。
この国書が意味することは非常に重要です。つまり、聖徳太子のように終始ぶれることなく対等外交を進めたように、国の支配者が主張すべきことは主張する態度を堂々と貫けば、たとえ世界の超大国を自負する隋であっても、まともに応じてくれることを示しているのです。
一方、隋からの激しい攻撃をはね返しながらも朝貢外交を続けた高句麗に対して、隋は「いつでもお前の首をすげかえられるが、皇帝たる自分にそのような面倒をかけるな」と一方的に突き放した内容の国書を送りつけています。



いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
さすらい こんにちは。
こういう歴史があるのですから
朝鮮は中国にもっとガンガン言って欲しいですよね。
日本ばかりをイジメないで。。。(笑)
応援♪
さすらいさんへ
黒田裕樹 > こういう歴史があるのですから
> 朝鮮は中国にもっとガンガン言って欲しいですよね。
> 日本ばかりをイジメないで。。。(笑)
朝鮮半島にとっては、大陸と我が国との三者間で様々な因縁がありますからね。
時代が下るにつれて、これからもっと複雑になっていきますかr、現代ではどうなのでしょうか…。
応援有難うございます!
ぴーち こんにちは!
いつもお世話になります^^
そうですか。。
こういうお話を伺っていると
今の日本の政治とダブらせてしまいます。
特に北朝鮮への一貫とした態度を
示すという点では、頑張ってほしいところです。
ただ、内政がぐらついている内は、どうにもなりませんけれど。。(^^A
それでは、応援です凸
咲霧 いつも、コメントありがとうございます!!
今私の学校では公民なんですけど、
社会がどうもニガテで・・・
暗記物とかも・・・
なんかいい方法ありますかね?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > そうですか。。
> こういうお話を伺っていると
> 今の日本の政治とダブらせてしまいます。
> 特に北朝鮮への一貫とした態度を
> 示すという点では、頑張ってほしいところです。
外交問題については「相手の出方をうかがってから考える」よりも「ぶれずに最後まで意志を貫くこと」が大切なんだ、ということを聖徳太子から学べますね。現代の北朝鮮に対しても、政府の方針がぶれることなく良い方向に持っていければと思います。
> ただ、内政がぐらついている内は、どうにもなりませんけれど。。(^^A
そうですね。どんなに外交をしっかりやろうとしても、国内がぐらついてしまっていては「相手になめられる」だけですからね。内政や外交をしっかりやってこその政治でしょう。
応援有難うございます!
こんばんは☆
bunyan いつもありがとうございます。
少し遠出をしてましたので、コメントが遅れました。
たくさんの黒田さん支持者ができましたねσ(゚ー^*)
今後も増えていくといいですねm(__)m
応援のポチ
咲霧さんへ
黒田裕樹 > いつも、コメントありがとうございます!!
いえいえ、こちらこそ毎回楽しい記事を有難うございます!
> 今私の学校では公民なんですけど、
> 社会がどうもニガテで・・・
> 暗記物とかも・・・
> なんかいい方法ありますかね?
現在の社会科教育で最も不足しているのは、「理由」を教えていないことなんです。それを教えずして暗記に頼らせようとするから、暗記が苦手な人にとっては苦痛でしかないうえに、覚えたとしてもすぐに忘れてしまい、無意味で終わってしまうんです。
公民の場合も同じです。例えば、現代で社会権(=生存権)が幅広く認められているのは、もともとは産業革命以後の労働者のひどい環境への救済のためであり、だからこそ労働者の権利が細かく認められたり、子供の頃から労働ばかりさせないように教育を受ける権利を認めたりしているんです。
関連づけて理解することによって、今までとは段違いに覚えやすくかつ忘れにくくなるうえに、一度完全に身についた知識を生かすことができれば、次のステップが比較的簡単になります。クラリネットの演奏の基本を身につけたら難しい曲への挑戦をしやすくなり、より楽しくなるのと同じですね。
もし咲霧さんが今後公民で「どうしても分からない」と困ったことがあれば、このコメント欄を利用して何でも聞いてください。「歴史講座」の名前に関係なく、私の分かる範囲ならお答えしますよ。教師時代は公民が専門でしたので(笑)。
では頑張って下さいね!
bunyanさんへ
黒田裕樹 > たくさんの黒田さん支持者ができましたねσ(゚ー^*)
> 今後も増えていくといいですねm(__)m
カウント数が増えていることは素直に嬉しいですが、中味をより一層充実させる必要があるでしょうし、何よりも皆様の信頼を裏切るようなことがあってはいけませんから、プレッシャーでもあります(^^ゞ
そもそも普段から誤解を招きやすい性分なんで気をつけないと…。
応援有難うございます!
聖徳太子 Come Back
オバrev 聖徳太子~、Come Back!
本当に、現代に蘇って欲しいですね。
この経済危機を期に東アジアは、日・中・韓を中心に・・・いや中国を中心に大きく変わろうとしています。日本は取り残されるかもしれない(T_T)
今こそ、聖徳太子~、Come Back!(古いですが、シェーン風にお願いします(^^;))
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 聖徳太子~、Come Back!
> 本当に、現代に蘇って欲しいですね。
私も正直そう思います。現代の政治家たちは何をやっているのか…。
> この経済危機を期に東アジアは、日・中・韓を中心に・・・いや中国を中心に大きく変わろうとしています。日本は取り残されるかもしれない(T_T)
オバrevさんの仰られることが杞憂で終わってくれればいいんですけどねぇ…(´・ω・`)
> 今こそ、聖徳太子~、Come Back!(古いですが、シェーン風にお願いします(^^;))
これはまた懐かしいですね!