1073年に即位された、後三条天皇の子である第72代の白河天皇(しらかわてんのう)も、引き続き天皇による親政(しんせい)を行われましたが、1086年に、白河天皇は8歳と幼い実子の善仁親王(たるひとしんのう)に突然譲位されました。そして、即位された第73代の堀河天皇(ほりかわてんのう)を後見されるという名目で、新たに白河上皇(しらかわじょうこう)として政治の実権を握られたのでした。
こうして、それまでの摂関家にかわって、天皇の父(あるいは祖父)が上皇として天皇を後見する制度が新たに誕生しました。上皇の住居が院(いん)と呼ばれ、その後に上皇自身が「院」と称されることになったことから、この制度のことを院政(いんせい)といいます。
院政は、荘園整理の断行によって国司(別名を受領=ずりょう)や、それまで摂関家に半強制的に支配されていた地方豪族や開発領主(かいはつりょうしゅ)たちに歓迎され、彼らを支持勢力に取り込むことによって、荘園という経済的基盤が減少した摂関家の勢力を抑え込むことに成功しました。




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
馬人 上皇の住居が院といったから「院政」!
そんなところまで知りませんでした^^;
それにしても住居の名前が上皇の名前として付けられるって不思議です…。
うーん。といっても上皇の別名が「院」というだけだからそんなに珍しくもないのかなw
馬人さんへ
黒田裕樹 ご住居の名前がそのまま称号になる、というのは珍しくないですよ。例えば、鎌倉幕府を開いた源頼朝は「鎌倉殿」と呼ばれていましたから。
院政の間に上皇が何度か交代されていますから、この方が呼びやすいかもしれませんね。
管理人のみ閲覧できます
-
marihime こんばんは☆
お邪魔するたび無意識にポチしてましたが、たくさんポチしてくれる人があるんですねσ(゚ー^*)
私は無頓着で気にもとめなかったんだけど、今日しげしげと見たら急降下してました(⌒▽⌒)アハハ!
黒田さんは上位キープで応援のしがいがあります。
ポチしときますね(*^_^*)
marihimeさんへ
黒田裕樹 いつも応援有難うございます(^o^)丿
marihimeさんのように、ご訪問のたびにポチ下さる皆様のご協力が、この上ない励みにもなっております。今後も「相互ポチ(?)」でお互いのブログを盛り上げていきましょう!(^_^)v
藤原氏を研究していた?
オバrev 後三条天皇や白河天皇は、昔の藤原氏をよく研究していたのかもしれませんね。
経営基盤をしっかりさせていくあたりも、なかなかのやり手だと思います。
また、白河天皇が8才の実子に譲位して、上皇として院政を始めたのも、藤原氏を参考にしたような気もしますがいかがでしょうか。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 後三条天皇や白河天皇は、昔の藤原氏をよく研究していたのかもしれませんね。
> 経営基盤をしっかりさせていくあたりも、なかなかのやり手だと思います。
> また、白河天皇が8才の実子に譲位して、上皇として院政を始めたのも、藤原氏を参考にしたような気もしますがいかがでしょうか。
仰るとおりだと考えられます。藤原氏によって政治の実権を事実上奪われてきた皇室の巻き返しといったところでしょうか。大げさかもしれませんが、「敵に学ぶ」ことは今も昔もそう変わらないと思います。
経済基盤については、今後の更新でもう少し詳しく説明していくことになります。
紗那 升といえば、秀吉さんは、ますの大きさを変えることで年貢を多く取ったんですよね。 なんかつながってます。
親政?なんか初めて聞いた気がする・・・・
藤原氏の時代はここで終了ですかね?まぁ、そろそろ世代交代してくれないと面白くないですし←
武士!武士がry
紗那さんへ
黒田裕樹 > 升といえば、秀吉さんは、ますの大きさを変えることで年貢を多く取ったんですよね。 なんかつながってます。
そのとおりです。枡の大きさを「京枡(きょうます)」に統一した際に、一反(いったん、約1アール)をそれまでの360歩(ぶ)から300歩に変えました。理由としては増収のためと、技術の進歩で米の生産量が上がったためという二つが考えられています。
全国各地で枡の大きさがバラバラだったら不公平ですからね。後三条天皇も豊臣秀吉も、為政者は考えることが同じというわけです。
> 親政?なんか初めて聞いた気がする・・・・
約2ヶ月前に醍醐天皇による親政を紹介していますので、参考にして下さい。
http://rocky96.blog10.fc2.com/blog-entry-219.html
> 藤原氏の時代はここで終了ですかね?まぁ、そろそろ世代交代してくれないと面白くないですし←
> 武士!武士がry
確かに「武士の世の中」が近づいていますが、もう少し時間がかかりますよ。決してじらしているのではなく(笑)、色々と説明することがありますので…(^^ゞ
お久しぶりです
徳薙零己 前九年の役終結から藤原師通の死去までの30年間の院政成立までの過程をまとめた「次に来るもの」の公開がやっと終わりました。
藤原師通の死去から白河法皇の逝去までの28年間の白河院政についての公開をを今月からはじめましたので宣伝までに。
そんなところまで知りませんでした^^;
それにしても住居の名前が上皇の名前として付けられるって不思議です…。
うーん。といっても上皇の別名が「院」というだけだからそんなに珍しくもないのかなw
院政の間に上皇が何度か交代されていますから、この方が呼びやすいかもしれませんね。
お邪魔するたび無意識にポチしてましたが、たくさんポチしてくれる人があるんですねσ(゚ー^*)
私は無頓着で気にもとめなかったんだけど、今日しげしげと見たら急降下してました(⌒▽⌒)アハハ!
黒田さんは上位キープで応援のしがいがあります。
ポチしときますね(*^_^*)
marihimeさんのように、ご訪問のたびにポチ下さる皆様のご協力が、この上ない励みにもなっております。今後も「相互ポチ(?)」でお互いのブログを盛り上げていきましょう!(^_^)v
経営基盤をしっかりさせていくあたりも、なかなかのやり手だと思います。
また、白河天皇が8才の実子に譲位して、上皇として院政を始めたのも、藤原氏を参考にしたような気もしますがいかがでしょうか。
> 経営基盤をしっかりさせていくあたりも、なかなかのやり手だと思います。
> また、白河天皇が8才の実子に譲位して、上皇として院政を始めたのも、藤原氏を参考にしたような気もしますがいかがでしょうか。
仰るとおりだと考えられます。藤原氏によって政治の実権を事実上奪われてきた皇室の巻き返しといったところでしょうか。大げさかもしれませんが、「敵に学ぶ」ことは今も昔もそう変わらないと思います。
経済基盤については、今後の更新でもう少し詳しく説明していくことになります。
親政?なんか初めて聞いた気がする・・・・
藤原氏の時代はここで終了ですかね?まぁ、そろそろ世代交代してくれないと面白くないですし←
武士!武士がry
そのとおりです。枡の大きさを「京枡(きょうます)」に統一した際に、一反(いったん、約1アール)をそれまでの360歩(ぶ)から300歩に変えました。理由としては増収のためと、技術の進歩で米の生産量が上がったためという二つが考えられています。
全国各地で枡の大きさがバラバラだったら不公平ですからね。後三条天皇も豊臣秀吉も、為政者は考えることが同じというわけです。
> 親政?なんか初めて聞いた気がする・・・・
約2ヶ月前に醍醐天皇による親政を紹介していますので、参考にして下さい。
http://rocky96.blog10.fc2.com/blog-entry-219.html
> 藤原氏の時代はここで終了ですかね?まぁ、そろそろ世代交代してくれないと面白くないですし←
> 武士!武士がry
確かに「武士の世の中」が近づいていますが、もう少し時間がかかりますよ。決してじらしているのではなく(笑)、色々と説明することがありますので…(^^ゞ
藤原師通の死去から白河法皇の逝去までの28年間の白河院政についての公開をを今月からはじめましたので宣伝までに。