※以下のサービスに関して、第56回歴史講座「日本文明の誕生」のレジュメを、サンプルとして無料で配布しております。詳しくはこちらをご覧ください。
いつも「黒田裕樹の歴史講座」をご覧いただきまして有難うございます。
ブログのもう一つの目玉である「本物の歴史講座」や「公民授業」は、約9年間で65回を数えておりますが、この度、「南木倶楽部全国」主宰の南木隆治(みなき・たかはる)先生との連携(れんけい)によって、これまでの歴史講座や公民授業のすべてのレジュメを、インターネット上からいつでもダウンロードできるサービスを開始しました。
名付けて「百万人の歴史講座」のはじまりです。
(※詳しくは下記のバナーをご覧ください)

(「百万人の歴史講座」のチラシです。クリックで拡大されます)
私が講演の際に作成する詳細なレジュメは、これまでは当日会場にお越しになり、資料代として1,000円をお支払いになった方だけが入手できるものでしたが、「百万人の歴史講座」の会員になっていただければ、過去の全ての歴史講座や公民授業のpdfファイルを、ネット上で見るだけでなく、何度でも自由にダウンロードして、保存あるいは利用が可能となります。
「百万人の歴史講座」のサービスは、過去に講演にご出席された方はもちろん、ご多忙あるいは遠方にご在住のために講演へのご参加が難しい皆様にも特にお勧めです。
また、歴史講座においては、当初から高校日本史Bの教科書に記載の重要語句の多くを含めており、ダウンロードしたレジュメと、リンク先のYouTubeの映像を合わせて学習することで、大学受験にも十分対応できます。
「百万人の歴史講座」の会員になるために必要な費用は、10,000円だけです。一生に一度、10,000円を支払うだけで、これまで50回にわたる歴史講座(公民授業)のすべてと、今後も展開される講演のレジュメを、ずっと入手されることが可能です。
(※お申し込みの詳細については、追記をご覧ください)
なお、現在まだクレジットカード対応等何もしておりません。ご不便をおかけしますが、追って、クレジットカード対応にしたときは、値上げをしなければならなくなると思っております。またダウンロードできるファイルも今は一切制限がかかっていません。今、入会されることをお勧めします。
振込先 楽天銀行 コード 0036 リズム支店(支店番号209) 普通預金 3483564 ミナキ タカハル
りそな銀行 金岡支店 普通 3249594 ミナキ タカハル
三井住友銀行 松原支店 普通 0678429 ミナキ タカハル
ゆうちょ銀行 店番418(ヨンイチハチ) 普通 8859857 ミナキ タカハル
(ゆうちょ銀行以外の金融機関から振り込む場合の口座です。店番はヨンイチハチとカタカナで入力)
ゆうちょ銀行 記号 14130 番号 88598571(ゆうちょ銀行口座から振り込む場合の口座です)
連絡メール(入金後両方にメールをお願いします)
南木隆治先生
dpait620@kawachi.zaq.ne.jp
黒田裕樹
rocky96@nifty.com



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- こんにちは
昨日お会いした田中です。
ご活躍のほど喜ばしい限りです。
少しお聞きしたいことがあるのですが
よろしいでしょうか?
田中さんへ
黒田裕樹 昨日は有難うございました。
よろしければ、当ブログの「メールフォーム」をご活用ください。
PCの画面の場合、左下にあります。
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私は今春より、新たに大阪府内の公立高校で非常勤講師(社会科)を務めることになりましたが、これを機会に、これまで蓄積してきたブログにおける通史の内容を、「まぐまぐ!」様のシステムを活用したうえで、新たに「無料メルマガ」として再編成することにしました。
メルマガで取り上げる時代に関しては、受験での出題頻度が高いとともに、日本史の中でも特に重要である近現代史のうち、明治時代から始めることにしました。
4月13日の創刊後は、週一回(毎週水曜日)のペースで、明治時代以降のブログ上の一つの単元(例:「幕府の滅亡と王政復古」「戊辰戦争の悲劇」など)の全文を、ブログのリンク先を明示したうえで、新たに加筆修正して振り返るとともに、各単元における重要語句(教科書において太字などで強調されたもの)を、文末で改めて紹介します。
受験を控えた高校生の皆様はもちろん、お一人でも多くの方々に「分かりやすくて楽しい歴史」を学んでいただけるよう、今後も精進いたしますので、多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします!
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しかしその後、関ヶ原の戦いを経て新たな権力者となった家康が、慶長8(1603)年旧暦2月に後陽成天皇から征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任じられて江戸幕府を開くと、家康の意向によって第三皇子の政仁(ことひと)親王を新たに後継とされることになりました。
しかし、後陽成天皇のご本意は弟君にあたる八条宮智仁(はちじょうのみやとしひと)親王へのご譲位であり、天皇と良仁親王や政仁親王とのご関係は決して良くなかったと伝えられています。
慶長16(1611)年旧暦3月、後陽成天皇から譲位された政仁親王は直ちに即位され、108代の後水尾(ごみずのお)天皇となられました。このことは家康、すなわち江戸幕府の持つ強い権力は天皇をも交代させることができるという現実を天下に示したと同時に、朝廷が持つ伝統的な権威を幕府が自身のために利用するという意味も込められていました。
そして、慶長20(1615)年に幕府は「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」を制定して、幕府による朝廷への統制をより一層強めることになりました。なお、後陽成上皇は元和(げんな)3(1617)年旧暦8月に47歳で崩御(ほうぎょ、天皇・皇后・皇太后・太皇太后がお亡くなりになること)されておられます。
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そして同年旧暦11月に正親町天皇から譲位(じょうい)を受け、107代の後陽成(ごようぜい)天皇として16歳で即位されましたが、当時は関白(かんぱく)となっていた豊臣秀吉(とよとみひでよし)が天下統一の事業を進めており、同年旧暦12月(1587年2月)に秀吉は太政大臣(だじょうだいじん)に任じられました。
天正15(1587)年旧暦9月に秀吉が政庁兼邸宅として聚楽第(じゅらくてい、または「じゅらくだい」)を完成させると、翌天正16(1588)年旧暦4月に後陽成天皇が聚楽第に行幸(ぎょうこう、天皇陛下が外出されること)され、秀吉が天皇の御前で徳川家康(とくがわいえやす)をはじめとする有力大名の前で自身への忠誠を誓わせました。
その後、後陽成天皇は天正20(1592)年旧暦1月に聚楽第へ二度目の行幸をされるなど、政務を委(ゆだ)ねた秀吉に大きな信頼と期待を寄せられましたが、慶長(けいちょう)3(1598)年旧暦8月に秀吉が死去すると、時代の主役は徳川家康へと移っていくのです。
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第二次伊藤内閣も第四議会で民党と対立しましたが、明治26(1893)年2月に、明治天皇から「和衷協同(わちゅうきょうどう、心を合わせて互いに協力して行動すること)の詔(みことのり)」が出されました。
和衷協同の詔の主な内容は、天皇お自らが宮廷費を6年間節約されて毎年30万円を下付(かふ、下げ渡すこと)され、また文武官の俸給(ほうきゅう)を10分の1出させることによって軍艦の建造費に充(あ)てるので、議会も政府に協力するようにというものでした。民党は詔に従って政争を中止し、その年の予算案も修正して成立させました。
ただし、その後も条約改正交渉の進展などをめぐって議会が政府を攻撃したこともあり、政府と衆議院との対立は、明治27(1894)年の日清戦争直前の第六議会まで続きました。なお、第一議会から第六議会までを総称して「初期議会」と呼ばれています。
※次回(12月5日)からは第75回歴史講座の内容について更新します。
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民党の仕打ちに激怒した海軍大臣の樺山資紀(かばやますけのり)は、議会の演説で「今日の我が国が安寧(あんねい)を保っているのは誰の功績か分かっているのか!」とぶち上げました。
樺山海相のいわゆる「蛮勇(ばんゆう)演説」に対し、民党が猛反発して議会は大混乱となり、進退窮(きわ)まった第一次松方内閣は、同年12月25日に衆議院を解散し、翌明治25(1892)年2月に総選挙が行われることになりました。
この総選挙の際に、内務大臣の品川弥二郎(しながわやじろう)を中心に大規模な「選挙干渉」が行われ、選挙中の死者が25名、負傷者が388名を数える惨事となってしまいました。
政府による干渉にもかかわらず、民党は過半数こそ達しなかったものの優勢での勝利となり、品川内相は引責辞任して、政府を支持する議員をまとめた国民協会を結成しました。なお、第一次松方内閣は第三議会終了後に退陣しています。
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山県首相は演説の中で、当時の厳しい世界情勢のもとで我が国が置かれている立場を冷静に分析し、他国との国境たる「主権線」と、国境を守るための朝鮮半島など我が国の周辺地域たる「利益線」を死守するためにも、軍備の増強が不可欠であると訴えました。
いわば国益を最優先させた山県首相の演説に対して、当時の民党が一斉に反発し、行政費を節約して地租の軽減や地価の修正を行うべきだと主張しました。これを「政費節減・民力休養」といいます。
山県内閣(第一次)は民党からの激しい攻撃を受けたものの、立憲自由党の議員を切り崩して、何とか当初の予算案を一部修正して成立させましたが、山県首相は翌明治24(1891)年5月に辞職しました。
山県はその後、元老(げんろう)として我が国の政治に大きな影響を及ぼしましたが、大正11(1922)年に85歳で死去しました。我が国を守るためとはいえ、ひたすら軍事力の増強を訴え続けた山県に対して当時の国民は冷たく、日比谷公園で行われた彼の国葬の参加者も大変少なかったそうですが、歴史の現実としては、予算案の通過からわずか3年後に日清戦争が起きており(詳細はいずれ後述します)、山県の判断が結果として正しかったことが証明されています。
山県有朋の遺(のこ)した実績を振り返ったとき、国民的人気を得られなかったとしても、国益のために命がけで取り組んだ「本物の政治家」の生き様を、私たちは目にすることができるかもしれませんね。
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選挙の結果、定数300に対して旧自由党を母体として結成された立憲自由党が131議席、立憲改進党が41議席を得て、両党だけで過半数を占(し)めることになりました。なお当時は、両党のように政府と対立する傾向にあった政党は「民党」と、また政府寄りの政党は「吏党(りとう)」と呼ばれました。
この結果を受け、政府は大日本帝国憲法(=明治憲法)発布当時の首相であった黒田清隆(くろだきよたか)が主張した超然主義をそのまま引き継ぎ、民党との対立姿勢を明らかにしました。
超然主義とは「政府が行う政策は政党の動向に左右されることは一切なく、超然として不偏不党(ふへんふとう)の姿勢を貫く」という意味であり、19世紀末の帝国主義の世界情勢の中で、我が国が欧米列強からの侵略を受けて植民地と化してしまうことのないように、政府の主導によって国難に正面から立ち向かっていくという強い意思表示でもありました。
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次に、条約改正の目的もあって民法と商法の編纂が進められ、明治23(1890)年に民法・商法・民事訴訟法や刑事訴訟法が新たに公布され、法治国家としての体裁が整いました。
ところが、民法の概要が、当時のフランス法的な個人の尊厳を重視する一方で、我が国古来の家族に関する慣習を無視したものであったため、制定前後から様々な意見が飛び交いました。これを「民法典論争」といいます。
論争において、憲法学者の穂積八束(ほづみやつか)が自らの論文で「民法出(い)デテ忠孝亡ブ」と書いて厳しく批判した一方で、梅謙次郎(うめけんじろう)は民法をそのまま導入すべきと主張しましたが、最終的には民法の施行(しこう)が延期され、大幅な修正が加えられたうえで、明治31(1898)年に新民法が公布されました。
新民法はドイツ民法を参考として、我が国の家制度の維持を重視しており、家長たる戸主(こしゅ)に家族の統括者という地位を与えて、戸主の地位をその権利義務一切を含め、原則として長男のみに一括して相続させるという家督(かとく)相続の制度を採用しました。
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国会は「帝国議会」と呼ばれ、対等の権限をもつ貴族院と衆議院からなる二院制が採用されました。なお、両院は対等ではあったものの、予算の編成は衆議院に先議権がありました。
このほか、憲法において国務大臣は、各自がそれぞれ天皇を補佐する責任を持つとされましたが、実は大日本帝国憲法には「内閣総理大臣」や「内閣」の文字はありませんでした。これは、憲法に内閣の文字を入れることで、総理大臣すなわち首相がかつての徳川幕府の将軍のように力を持ち、天皇を軽んじる可能性があることを、幕府と命がけで戦った経験を持つ伊藤博文が恐れたからだという説があります。
なお、憲法公布と同時に、皇位の継承やいわゆる摂政の制度などを定めた皇室典範(こうしつてんぱん)や、貴族院令あるいは衆議院議員選挙法も公布されました。
このうち貴族院は、皇族や先の華族令で規定した華族のほか、国家の功労者や学識者などから天皇により任命される議員や、各府県から一人ずつ選出された多額納税者議員から構成されました。なお、衆議院議員選挙法の詳細については、次回(初期議会)で改めて紹介します。
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