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「黒田裕樹の百万人の歴史講座」は、これまでに90回以上を数える私の歴史講座のレジュメのほぼ全てを、金20,000円を一回お支払いくださるだけで、いつでもどこでもダウンロードできるサービスです。

(「百万人の歴史講座」のチラシです。クリックで拡大されます)
史実の光と影や世界情勢を踏まえ、時代を動かした人物を軸に大きな歴史の流れをつかむ講演内容をメインとする詳細なレジュメは、旧石器時代から現代までのあらゆる歴史事象を網羅しているだけでなく、受験勉強に必要な語句などの重要事項にも完全対応しております。
世の中には様々な歴史講座がありますが、その多くは特定の時代のみを対象としたり、あるいは受験勉強の内容と乖離(かいり)したりする一方で、この「百万人の歴史講座」のように完成度の高いものはここにしかないと自負しております。
さらに、ほとんどのレジュメはYouTubeによる講演の動画とリンクしており、映像を見ながら容易に学習できるシステムを確立しております。今なら金20,000円を一回お支払いくださるだけで、今後の分を含めて、何度でもお楽しみいただけます。ぜひお申し込みください!
(※お申し込みの詳細については、追記をご覧ください)
なお、現在まだクレジットカード対応等何もしておりません。ご不便をおかけしますが、追って、クレジットカード対応にしたときは、値上げをしなければならなくなると思っております。またダウンロードできるファイルも今は一切制限がかかっていません。今、入会されることをお勧めします。
振込先 楽天銀行 コード 0036 リズム支店(支店番号209) 普通預金 3483564 ミナキ タカハル
りそな銀行 金岡支店 普通 3249594 ミナキ タカハル
三井住友銀行 松原支店 普通 0678429 ミナキ タカハル
ゆうちょ銀行 店番418(ヨンイチハチ) 普通 8859857 ミナキ タカハル
(ゆうちょ銀行以外の金融機関から振り込む場合の口座です。店番はヨンイチハチとカタカナで入力)
ゆうちょ銀行 記号 14130 番号 88598571(ゆうちょ銀行口座から振り込む場合の口座です)
連絡メール(入金後両方にメールをお願いします)
南木隆治氏
yakata7777@yahoo.co.jp
黒田裕樹
rocky96@nifty.com
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」でダウンロードできる全てのpdf(テキストファイル)は、黒田裕樹が著作権を持つ著作物であり、またその販売権は「南木倶楽部全国」を主催する南木隆治にあります。これらのファイルを第三者が再販売・不特定多数に対して再配布することはできません。


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shinoshi 黒田裕樹様
shinoshiです。
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・「失われた細川内閣以降」から脱却を
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を運営しています。
党議拘束の撤廃、中選挙区制に戻す、憲法9条改正、核保有の実現などを主張しています。是非、ご覧になって下さい。
以上、あなたのご活躍を期待しています。
私は現在、大阪・私立清風高等学校で社会科教師を務めながら歴史講座を行っておりますが、これまで蓄積してきたブログにおける通史の内容を、「まぐまぐ!」様のシステムを活用したうえで「無料メルマガ」として再編成しております。
現在は週一回(毎週水曜日)のペースで、これまでにブログで記載した内容に新たに加筆修正して振り返るとともに、各単元における重要語句(教科書において太字などで強調されたもの)を、文末で改めて紹介します。
受験を控えた高校生の皆様はもちろん、お一人でも多くの方々に「分かりやすくて楽しい歴史」を学んでいただけるよう、今後も精進いたしますので、多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします!
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こうした動きの中で、平安時代の中期から後期には我が国独自の文学や美術などが数多く生まれ、後世の文化にも多大な影響を与えるようになりました。10世紀から11世紀にかけての我が国における新しい文化は「国風(こくふう)文化」と呼ばれています。
国風文化の大きな特徴の一つに「仮名文字」の発達がありました。仮名は万葉仮名の草書体(そうしょたい)から変化した平仮名(ひらがな)と、漢字の扁(へん)や旁(つくり)の一部からとられた片仮名(カタカナ)とに分かれ、それぞれ10世紀頃にはほぼ形が一定するようになりました。
平仮名と片仮名の使用によって、日本人特有の感情や感覚を生き生きと表現することが可能になり、和歌や物語の隆盛をうながすなど、文学における飛躍的な発展をもたらしました。
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当時の朝廷の行為には理解しがたいものがありますが、冷静に考えれば、現代の私たちも「悪いことが起きませんように」と日々を過ごすことはあっても、万が一のための備えをついつい忘れがちなことはないでしょうか。あるいは、例えば日本国憲法第9条などといった法律の効力を過信して、我が国がいつまでも平和であり続けると思い込んではいないでしょうか。
何事も起きなければ良いに越したことはありません。しかし、危機管理を普段から怠(おこた)らないようにするとともに、私たち一人ひとりが「万が一」の状態もあり得ることを常日頃からしっかりと認識しておかなければ、いざという際に災害や侵略などを防ぐのが難しくなるのは明らかです。
刀伊の入寇は、現代にも通じる我が国にとっての大きな教訓を与えているといえるでしょう。
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では、その「鉄則」とは何でしょうか。カギを握るのは、我が国固有の文化である「和歌」です。
平安時代前期に編纂(へんさん)された古今和歌集(こきんわかしゅう)の冒頭の序文に「仮名序(かなじょ)」がありますが、その一節にこんな文章があります。
「力の一つも入れずに天地の神々を動かし、目に見えないあの世の霊魂(れいこん)を感激させ、男女の仲を良くして、武人の心すら和やかにすることができるのが和歌なのです」。
要するに、和歌さえ詠(よ)んでいれば、それに潜(ひそ)む超自然的な存在によって、自分たちの思いどおりに世の中を動かすことができる、ということなのです。
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この非常事態に、当時の大宰権帥(だざいごんのそち)であった藤原隆家(ふじわらのたかいえ)が各地の地方武士を率いて奮戦し、わずか十数日間で刀伊を撃退(げきたい)しました。記録上、我が国の領土に上陸した敵軍を倒した初めての出来事であったこの戦いは、後に「刀伊の入寇(にゅうこう)」と呼ばれています。
さて、海賊による我が国への侵略を撃退した藤原隆家の勇敢な行為は素晴らしいものがありますが、当時の朝廷は隆家にどんな褒賞(ほうしょう)を与えたでしょうか。
実は何も与えていないのです。それどころか、彼の行為を叱責(しっせき)すらしているのです。
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また、朝鮮半島では新羅(しらぎ)が9世紀末までに衰えると、10世紀始めに建国された高麗(こうらい)によって935年に滅ぼされました。高麗は翌936年に朝鮮半島を統一しましたが、我が国は高麗とも正式な国交を結ぼうとはしませんでした。
かくして、我が国と隣国との正式な外交関係は10世紀の頃までに途切れましたが、その背景には、我が国独自の文化が発展し、諸外国からの文化の交流を必要としなくなるほどに隆盛を極めたという事実が存在しました。
しかし、いかに我が国が海で囲まれているとはいえ、諸外国と正式な国交を結ばなかったうえに軍隊すら持っていなかったという現実は余りにも無防備であるといえますが、後の元寇(げんこう)のように、この時代に諸外国の軍勢や海賊などに我が国が襲われたことはなかったのでしょうか。
実はあったのです。
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その背景には、いつまでも中国大陸からの文明に頼らなくても、独立国として自力の文化を発展させることができるという強い自負もありました。そして、前回(第98回)の講座で紹介したとおり、寛平(かんぴょう)6(894)年に菅原道真(すがわらのみちざね)が遣唐使の大使に任命された際に派遣の中止を建議して認められると、直後の907年に唐はついに滅亡しました。
唐の滅亡後は五代十国(ごだいじっこく)による諸王朝の興亡が続いた後に、960年に宋(そう)が建国されましたが、大陸からの積極的な文化の交流の必要性がなかった我が国は、臣下の礼をとらなければならない朝貢(ちょうこう)外交を嫌って、宋とは正式な国交を結びませんでした。
我が国では商船が宋へ渡航することも禁じましたが、その一方で北九州に来航した宋の商人が私的な貿易を行ったことにより、書籍や陶磁器などの工芸品や薬品などが輸入されました。また、我が国の僧侶(そうりょ)が新たな教えを求めるために、朝廷の許可を得て宋に渡ることも珍しくありませんでした。
なお、この時代の宋は12世紀に一旦滅亡した後に再興されましたので、後代(こうだい)と区別するために「北宋(ほくそう)」とも呼ばれています。
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つまり、武士たちをガードマンとして雇(やと)うようになったのです。なお「さむらい」という言葉は、身分の高い人のそばで仕えることを意味する「さぶらふ(=さぶらう)」が由来です。
軍隊を持っていなかった朝廷や国司は、各地の武士を盗賊追捕(ついぶ)のための追捕使(ついぶし)や、内乱の際に兵士を統率(とうそつ)する押領使(おうりょうし)に任じて、諸国の治安維持のために積極的に利用するようになりました。しかし、当時の武士はこれらの求めに応じて各地で起きた反乱を鎮圧するのが主な役目であり、朝廷を脅(おびや)かすまでの実力には至っていませんでした。
それは、承平・天慶の乱から約100年後に藤原道長(ふじわらのみちなが)や頼通(よりみち)らが栄華の頂点を極めたことでも明らかであり、武士団のさらなる成長は、藤原氏の栄華の時代の後にやってくるのです。
なお、平将門は若い頃に藤原忠平(ふじわらのただひら)に仕えたことがあり、その縁で「滝口の武士」として雇われていた経験があります。朝廷に仕える武士であった将門が反乱を起こしたとは、何とも皮肉な話ではありますね。
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将門はその後も下野国(しもつけのくに、現在の栃木県など)や上野国(こうずけのくに、現在の群馬県の大部分)の国府も攻略して関東の大半を占領し、自身が桓武天皇の子孫であることから「新皇(しんのう)」と自称しましたが、翌天慶3(940)年に同じ東国の武士である平貞盛(たいらのさだもり)や藤原秀郷(ふじわらのひでさと)らによって滅ぼされました。
同じ頃、西国でも伊予国(いよのくに、現在の愛媛県)の国司であった藤原純友(ふじわらのすみとも)が、瀬戸内海の海賊を率いて反乱を起こし、伊予の国府や大宰府(だざいふ)を攻め落としましたが、天慶4(941)年に清和源氏の始祖(しそ)とされる源経基(みなもとのつねもと)らによって滅ぼされました。この戦いは「藤原純友の乱」と呼ばれています。
同時期に東西で起きた二つの反乱は、乱自体は何とか制圧したものの、軍事力の低下が明らかとなった朝廷に衝撃を与えるとともに、地方武士の組織が一層強化されるきっかけになりました。なお、この二つの乱は、当時の年号から「承平(じょうへい)・天慶の乱」とも呼ばれています。
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